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営業部デスクのコラム欄

「わたしの研究開発雑記ノート」

                                          

2005年9月26日
本日は有り難いご来客が2組重なった。皆様、ご多忙な中、わざわざお越し頂いたにも拘らず、ろくなお構いも出来ず、お許し下さいませ。本日は、遠方より、例のロシアのヘリコで、環境に優しい風力発電用の、1翼30mのプロペラグレードを、山上まで森林を伐採して運搬用の道幅100m道路など一切造らず森林も守りながら、さらに環境に優しくする為に使う発泡スチロール製特殊台の最終仕上げと出荷最終チェックに、その航空機メーカーの整備担当の技術者の方々に来て頂いておりました。 奈良から引き取りにお越し頂きました例の神社の氏子様には、これほどばたばたしておりましたので、きっと驚かれたことと思います。神輿フトンの芯材としての発泡スチロールですが、神社に奉納奉ってからのお使いと聞いております。以後、100年、これ程長く、且つ大切に発泡スチロールが使われることも、そうそうめったにあるものではないと確信しています。本当に有難うございました。日本の伝統の中に使われる発泡スチロールと、最新式巨大科学プロジェクトに使われる発泡スチロールと、何と言うコントラストでしょうか。
 zzz、zzz、zzz、とここまで書いて気がつくとまた眠っていたようだ。もう外は明るくなってきた。何故だろうか、また夢に中学生の頃の思い出が出てきた。そう言えば、昨日は、ある高校か中学校の生徒会の方とメールで、文化祭に使う発泡スチロールの件でやり取りしていたのだが、生徒会とか、文化祭実行委員会とかの文言が飛び交うと、流石に35年前とタイムワープを起してしまう気分だった。で、恐らくきっとそうなんだろう。夢の中で、中学の殺風景な教室が出て来て、お昼の昼食の後だろうか、皆運動場へ遊びに飛び出して、数人しか残っていない。ところが、35年前だというのに、机にノートパソコンを広げてせっせと書き込みに忙しい自分が座っていた。こうして、学生さん達と頻繁にやり取りすることが多くなったことが、夢に中学の同窓生がよく登場するようになった理由なんだろうか。よく解らない。この夢では、宝くじを2枚買って、パソコンと机の間に挟んでウシウシしていたのだが、この辺りも誰か心理分析でもしてもらえると助かるものだ。

     世の中は 常にもがもな 渚読む あまの希望に 綱手かなしも


2005年9月25日
今日は、枚方のツタヤ書店など合計4店、交野の水嶋書店など2店、回った後、寝屋川の平和堂の書店まで行ってみたのだが、結局現段階では、パッチワーク通信社の新刊本『リラックス グッズ』はまだどこにも店頭には並んでいないのが判った。これだけ本屋を回ると、流石に疲れた。今日はここまで


2005年9月24日
今日も朝から各種製作が続く。まあ、考えてみれば有り難いものだ。いよいよ、この26日頃から、各書店でパッチワーク通信社の『マイクロビーズでつくる リラックス グッス』と言う雑誌(定価1000円)が店頭に並ぶのだ。この雑誌の編集には発泡スチロールビーズ(0,5mmマイクロビーズ)の提供や、通販部門を担当するなど、当社が全面協力させてもらったりしたので、感無量と言ったものがある。たった1冊の構想から写真撮影などの編集に何と1年も賭けて来たのだから、大変なものだ。これで売れなければ、経費だけでも大事だろうし、皆さん、売れないはずはないという硬い信念で取り組んで来られたんだろうか。新商品、新開拓のアイデア商品、或いはモデルチェンジした新発売品、どれもそうなんだ。開発にはそれだけ時間が掛かるものだ。そして、今回の新刊本、相当力を入れて来てはいても、売り出しと同時に、最初の数日で勝負は決まるのだろうか。ぱっと咲いた花のように、その花を振り向いてくれる読者が何人いるかで、花の命は決まってくるのだろうか。映画などでも初日の入場者数で決まるそうだから、売れ行きという結果がでるのは最初の1週間ってところだろうか。それとも、専門誌だけに、どっこい土俵際で突っ張って長々と売れ続けてくれるのだろうか。結果はもう直ぐわかる


2005年9月23日
今日は休みだったが、例の製作で追われていた。気温は30度を指している。暑さ寒さも彼岸まで、と言ったのは過去のものとなって来た。帰るとすぐ、完全グロッキーで倒れるように寝込んでしまった。もう朝だ。確かに夢の中に最近は中学の同窓生がよく出てくる。何故だろうか。おっと時間だ。では失礼


2005年9月22日
今日も朝から例の製作が続いた。我々のような現場で毎日汗を流して仕事をしている者には、常に、現状で妥協してしまうのか、それとも何がしかの前進を求めて工夫やアイデアの量産に それがまだ取り敢えずは空想の領域ではあったとしても、それに心掛けて行くのかの、どちらかだろう。他の働く多くの人達と同じように、一日の大半は無言で切ったり貼ったり袋に入れたりしているのだ。現状直面する課題の解決で精一杯ではないか。確かにそうだろう。しかし、まあ、どういうご縁か、毎日こうして、細々とではあっても不特定多数(少数かな)のメデアを相手に駄文ではあっても、更新を続けるということは、後者の選択に近いものがある。何度も書くが、後1ヶ月で丸3年になる。10歳代から書き始めた日誌も、相当横着なもので、この3年は丸で1行も更新していないのに比べて、とても対照的だが、ようやく任期も残りあと僅かになった。こちらの作業は、書きっ放しの日誌とは違って、文章の1字1句に注意しながら書かなければならないので、確かに頭の体操にはなると思う。そもそも読まれることを意識して、毎日何か違った話題を考えなければならない。その考えるということが、例え新聞テレビの丸写しであったとしたなら、読む側には何とも味気ない文ではあっても、学習の学ぶは習うからという字の如しで、書く側からは、考える以上に考えるヒントを得ることが出来ると判っただけでもこのようなコーナーを続けてきたことの収穫だろうか。そうだ、この考えるという行為は、どうも曖昧としている。どこまでが、自己本位の形成品であってどこからが、他人の借りのものか良く判らない。だから、商品を作るのに似ている。例え、それが新商品、新開発の製品であったとしても、本当のところよく似たものが巷にごろごろしているのと同じだ。よくよく考えた積りでも、大概は、そこらに転がっているようなアイデアか、考えたことの引き写しになってしまっている。が、だ。それでも良いわけだ。その先が問題なのだろう。いつまでもいつまでも、だらだらと糞まじめに書き続けていると、やがて3年が過ぎ、脳みその中で、腐って発酵している。何かが醸成して来た。


2005年9月21日
今日も朝から例の作業が続く。おっと、時間がもう無いようだ。基準地地価動向というのが新聞に載っていた。土地の値上がりが、予想よりも急激に全国的に、点から面への広がりを見せ始めたようだ。このコーナーでも3年前に今回の状況になるだろう事はお伝えしていた。一度、同じ方向に傾きだすと、またしばらく止まらないのだろうかなあ。明治の頃から上げだして、50年、終戦で一時止まり、また50年、バブルで15年も止まったが、これから又、50年位は上げ続けるのだろうか。戸建の家を建てて住むには、正しく今がチャンスだろう。いま、自分の土地の上に家を建てて住んでおけば、何十年もすれば、きっと物凄い財産になるだろうなあ。いいなあ、家を買える人は羨ましい限りだ。さて、時間だ。では失礼。


2005年9月20日
今日も朝から例の製作が続く。本当は、有り難いの一言に尽きるのだろう。こうして、何とか日々、過ぎる夕陽を送ることが出来るのだ。何をか云わん哉、また明日、昇る明けの陽の澄みたるを願えるのだろう。だから、唯、ひたすらに前向きに、ひとつ又ひとつ、製作作業が続く。否、明日をまで夢見ず、今日この時が無事に過ごせたら良しとするべきだろうか。この日一日が送れたのなら、それで良しとすべきだろう。昨日は、ある小説家が癌の宣告を受けて再発して亡くなるまでの2年を綴ったドキュメンタリー映画のビデオをある知り合いから借りて見ていたら、最後まで一気に見てしまった。瀬戸内寂聴や埴谷雄高が、その小説家の入院先に見舞いで登場するのだが、確かに、トップの人達は話す言葉がそのまま小説になりそうな意味深いものがあると思ったし、先輩文士に多士済々なメンバーが何故か集まったと今でもそう自分では考えているのだが、もう30年も昔の学生の頃を思い出さずにはおれなかった。しかし、翻っては、近所にお住まいの人で、17歳になる娘さんが、今年の7月、学校の食堂で昼食時、突然歯茎から出血を見、そのまま18日後、病院の無菌室で、出血してから一度もご家族と面会も、一言も交わすことすら出来ずに、一人で亡くなっていたという話をその後直ぐに聞いた時には、そのビデオの感想は完全に空中分解していた。ビデオの小説家は一流だけあって、残された生をカメラの前で実に雄弁に語っていた。正しく倒れるまで、口を閉じることが無かった。文学を語り、文章教室の生徒さんにその文学の真髄は「いかにリアリティーを出すか」だと雄弁に説いたのだが、一体どうしてだろうか。17歳の娘さんが、突然の白血病で、一言も何も言い残すことも出来ずに、無菌室で短い生を終えて逝ったと聞いたことの方が、あまりにも悲しく、哀れで、涙が止まらなくなるのは何故だろうか。


2005年9月19日
発泡スチロールの成型機を、良品が生産出来るように10数年機械調整していると、確かにその発泡スチロールのような風が吹けば直ぐに飛んで行ったりする取り扱い難い製品を機械的に完全に巧く離形させていくのは、離れ業のような技術かもしれない。正に、機械の微調整は、パチンコでもパチプロ並みの腕前を持った人が多いというのは何となく理解できる。ゲームセンターでも、クレーンで人形を持ち上げて取るゲームだが、わたしも我ながらその腕前に感心しているのだ。先日も、ムシキングの巨大人形で30センチもあるものを エレファントカブトムシ、オオクワガタ、コガネクワガタ、とたった1回で、立て続けにゲットしてしまって内心大喜びしたものだった。クレーンが縦と横に移動するのだが、カブトムシの重心がどのあたりで、どのあたりにクレーンを停止すればいいのか、発泡スチロールの機械的に、製品を離形すればいいのかと同じようにして感覚を集中していれば、直ぐに読めてくるのだ。有り難いものだ。少しは生活の糧に役立ってくれている様だ。zzz、zzz、zzz、おや、もう朝だ。Nハム食品の社長にまで登りつめていたSくんからメールが届いていたが、返事が書けない。どうやら、社長を降ろされて、新しい、研究所の所長に就任するらしい。また、現場でハム食品の研究開拓の毎日に返り咲くそうだ。できたら、古巣の研究所が良かったのになあ。、、、、おっと時間切れだ。今日はここまで


2005年9月18日
昼間、近くの公園へプロの製作した偽岩を見に出かけた。こういうのは、どうして作ったのだろうか。これらは、恐らく例のプロ集団がマイスター魂を傾けて製作した物ばかりなんだろうと、つくずく、大きな唾を飲み込みながら痛く合点した。そして、急に先日の芸大大学院の学生さんから届いた高松塚古墳の原寸大模型を作りたいというお問い合わせを思い出した。学生さんで、兎に角予算が皆無だからとあったので、当社端材を破格値でお見積もり差し上げたのだったが、返ってきた返事に、その材料を使って、原寸大の模型を組み立てるのには、いくつも貼り合せたりしないと使えそうにないからと、それを使って貼り合せて作ってくれるような業者を紹介してほしい、と言う、大変虫のいい内容だったので、呆れてしまったのだった。スーパーの安売り商品を買って、別の小売の商店で、この使い方を教えて呉れるお店を聞いているようなものだろうか。世の中、平和なようだ。そんな事を平気で聞いてこられる感覚が、どうしてもわからなかった。それは、学生さん同士の内輪での携帯情報のやり取りなら、或いはありうることだろうが、逆に、ほいほいと、何十年も賭けて積み上げて来たものをすんなりお教えするところが在るだろうか。学校と社会とは全く違うのに、その中にどっぷり漬かっていると、何でも質問すれば教えてもらえる程度の感覚になるのだろうか。少なくとも、学費を自分でアルバイトなどして払っているなら、その感覚にブレは少ないのだろうが、国立では学費も上がり、全てが人任せの学生生活なのだろうか。しかし、幸か不幸か学習対象は、芸術だというのだから、現状から、その感性がたたき出して表現するものは、我々のこの同時代だろうなあ。


2005年9月17日
今日は半日仕事にならず。メーカーの4トントラックが、国道307号を左折したあたりで燃料の補助タンクを脱落させてそのまま気づかすに500mほど走って、ようやく、会社の近くでどうもおかしいなと思って停止したためで、その間を路面が軽油で一杯になったと、運転手さんが血相を変えて助けを求めて来たからだ。昨夜満タンにしたばかりでメインタンクとはバイパスで繋がっているので合計400リッターになる。手持ちの古新聞を一束担いで、走って、油の水溜りが至る所に出来ている道路へ拭き取りの手伝いに向かうが、新聞紙でいくら拭き取っても追いつかない状態だった。直ぐにサイレンを鳴らしながら消防署の人が消防自動車に乗って中和剤やおがくずを持って来たので、15,、6人で路面に中和剤を撒いたりしていった。交通量の多いところで、油で滑りやすくなった路面をハンドルを切って避けようとするのだが、次々に車がスリップしていた。2時ごろ作業は終わり、消防、警察が引き上げ、修理のトラックが最後に引き上げた。それから、また例の製作があった。


2005年9月16日
製作実例を更新していてまた机で眠っていた。夢の中では、百貨店の屋上に布団を敷いて住んでいた。雨が降ると布団が濡れるので、どうしたものかと一時雨宿りに、1階下の大食堂の一角に住み込みの寝城を移そうとしていたら、あれはだれだろうか、中学の同窓生だ。近くまでやって来て、階段の途中なら安全だとアドバイスしてくれていた。夢の中で、さらに夢にこんなシーンがあったよ、とその同級生に答えていた。なんとも貧しい生活をしているような夢だ。そうだ、目が覚めて、我に返ると、ふと手のひらをじーと見たくなった。


2005年9月15日
今日も朝から各種お問い合わせが続いた。作業的に相当急がないとならないかなあ、と思案していた一件が、どうやら来週物理学会があるらしいので、時間的に余裕が出来てほっとしていたのだが、ひょんなことから、一度納品した容器をどうしても再度、目視で確認したいからと依頼すると、それは今、兵庫のスプリングエイトに行ったそうだ。何とも、物理の得意な方々に、無理ばかりお願いしている。zzz、zzz、zzzおっとまた机で眠っていた。物の理を研究される方と、無の理を研究されている方と、まあ世の中2人のタイプがおられるわけだ。滋賀県長浜の○○○宗長浜別院 帰○寺のハナ垂れ小僧のMくんなどは、無理ばかり言って来るので、矢張り、日頃から、無の理を盛んに研究しているだろうという見解には痛く肯ける。先日もそうだった。京都の日本で最初に出来たというビールのホールに来い来い、としつこく誘うので、本当に呑み助は困ったものだと、久しぶりに京都四条界隈まで出向くと、どこの学生さんに教わったのかまで言わないが、お猪口でビールの一気飲みだと笑わせながら、一人でまだ外は明るいのに、早くに出来上がっていた。呆れて黙って先に帰ろうとすると「まあまあ、まあまあ」   おっともうこんな時間だ。では失礼


2005年9月14日
今日も朝から例の製作。約1年振りだろうか、あの発泡スチロールで幻の大和郡山城を原寸大で作った教育委員会のスタッフの人に遠い所をわざわざお越し頂けた。あの時、あまりにも素晴らしい出来栄えで、一夜城で終わる予定が市民の多くの方々のお申し出で約1ヶ月の展示に延長されたのだが、その時の逸話をお話頂けた。何でも、東京の旅行社からの依頼でそのお城の見学を含めた観光ツアーを組みたいという一件があったらしい。まあ、お城は直ぐに取り壊しますからと訳を話すと、折角の観光ツアーの企画は水泡に消えたのだったそうだ。それ程に、あの原寸大のお城の影響力は、広がりを見せていたのだろう。恐らく、将来、このお城が実際に復元されるようなことがあれば、経済的波及効果もさることながら、人心面でも、求心的な象徴としておおきな影響をもたらす事だろう。正に、今回の疑似体験は、それを実証したのだろう。そういう意味で、町ぐるみの壮大な実験だったようだ。貴重なお話を有難う御座いました。


2005年9月13日
災害はどこで何時起きるか解らない。それが、人災であろうが、事故であろうが、又は事件であってもどこで遭遇するのかは、全く解らない時代になった。例の製作を続けながら、依頼主の先におられるお客様の気持ちが痛いほど理解できた。我が最愛の小さな一人娘だったのだろうか、それとも、長年連れ添ったパートナーだったのだろうか、よく解らないが、その思いは、ご本人方がたにとっては真剣な、すがるような決意があったのだろうか。本当に将来復活するのだろうか。ここまで来れば、もうどこにも疑いの念は皆無なのだ。あなたの笑顔が再び見ることが出来たなら、それでいいのだ。「おとうさん」とその子がひと言いってくれたならそれでいいのだ。全てを許してしまうのだ。それが遠い将来であってもいいのだ。喩え、わが身は朽ち果てようとも、あなたの笑顔が復活する希望がほんの僅かでもあるのなら、ゼロコンマ何桁の確率であろうとも、可能性があるのなら、有る方に賭けたいという強い願いは、いつしか、こころのなかで一点に光るともしびとなって、それはやがて、そうだ、信仰に似たようなものに近づくのだろうか。誰もが、その話を聞けば、恐らくハナにして取り合わないか、贅沢者呼ばわりされるのが関の山なのかもしれない。しかし、愛する人への願いは、これがわたしの全てだというものを例え投げ出したとしても、構わない位に強烈だったのでしょうか。科学の発展と、流通特に保冷技術の進歩に合せて保冷倉庫というものは、国内外至る所に整備されて来ているので、どこの町外れの寂れた保冷倉庫で、それが人知れず、使われるのだろうか。そして、社会の何処かで、再びの復活まで、しばしの眠りにつくのだろうか。例の容器を製作しながら、またつまらない事を考えてしまった。


2005年9月12日
今日も朝からその件で例の作業を進めた。有り難いことに、奈良からの消防団の団長が来社頂けたのは、午前中の早い時間だったので、その後、準備に掛かることには余裕が充分あった。便利になったもので、京奈和自動車道が延伸したので、田辺西でインターを降りるまで、驚くほど早くお越し頂けたそうだ。先日も、第2京阪を利用して、八幡経由で名神に乗り継ぎ、時計の針の逆周りで大阪箕面方面にお戻りになったお客様から、随分早く帰れました、とわざわざ連絡を頂けたものだった。京阪奈の学術研究都市の建設に伴って、随分と便利になったものだ。zzz zzz zzz、、、また机で眠ってしまった。そうだ、先日買った宝くじが当たれば、いっそ、研究都市に引越しできたら面白いだろうなあ。しかし、電車の便がまだこれからの土地だからなあ。矢張り引っ越すなら市の中心部だなあ。毎回1枚だけに決めていたのに、今回は2枚買ってしまったら、途端に見る夢も2倍に膨らんでしまったようだ。われわれのような規模の小さな会社では、職住接近が最も大切だ。市の中心電車で歩いていけるような所に引っ越すなら宝くじを3枚は買わないといけないだろうなあ。zzz zzz zzz おっともう朝か。製作実例集のネーミングを、漫画「ポケモン」のポケットモンスターを次々にゲットをするタケシが「ポケモン図鑑」というのを持っているのだ。『ハッポーモン図鑑』というのはどうだろうか。製作実例集が500例を超えてきたなら、作ってもいいのかもしれない。早速トップページに書き込んでおこう


2005年9月11日
最近、質問とお答えのページを殆ど更新していないのだが、それは余りにも膨大な件数に膨れ上がって来たので、対処し切れていないのが実態な訳だ。何しろ、一日平均6件で1年もすると2000件、この3年でコツコツとよくもまあ、何と6000件のご質問にお答えしてきた計算になるからだ。その中で、よくあるご質問が、発泡スチロールの切断加工に何かないものか、というのがある。本当にちょくちょくあるので、一層、こちらでプロ仕様の加工機を売り出しても面白いなあと思うほどだ。市販の発泡スチロールカッターでは20センチも切り込みを入れられないそうだが、それはどうしても、糸鋸のような弓方式になった構造の為だ。だからプロはそんなのを使わない。だったら、それをセミプロ用に市場に出せばいいのにという発案だ。先日も、例の楕円体の加工の件で滋賀県から相当有名な芸術家にお越し頂いたのだが、こちらでHPにも少し掲載しているのだが、自家製の球面体加工機をお見せして、「こりゃ特許取りなさいよ」と有り難い進言を頂いたのだが、こんなのでそんな事をしていては、発泡スチロールの業界で何人もの親類縁者が働いて来たのに、笑われてしまうのだ。球面体を出すにはこうしよう、楕円体、卵体を出すにはこうしよう、ということは公開しよう。その方が、きっと次の時代を切り開く若い世代のお役に立つだろうと思う。時代は、何もかも、ネットでユーザーと連結して図面を手書きすることも無くなって来ている。加工の世界でも、NCを使ったものが主流になりつつある。もともと金属加工から来たのが、建材用材木の加工にまで、NCが入り出して、建て売りの現場では革新的な変化をもたらして来たのだが、それが発泡スチロールを素材にした現場でも、当たり前になりだしたようだ。しかし、反面その導入で時間差攻撃のように、出来る技術者が相対的に減少している。『ものつくり』と『人つくり』は同じはずだったのに、ものつくりだけ中国へ行ってしまっては、この時間差攻撃で国内の技術者はやがてゼロになる理屈と同じだ。便利なものに頼ってばかりでは、やがて近づく次なる変化の波に対応しきれなくなるものだ。人の脳みその前頭連合野、その殆どは手を動かす神経と直結していると聞く。重厚長大から軽薄短小へと移り、今また、重厚長大が復活してきた。生産現場の主流は、ネットの利用に皆が漸く慣れて来た所なんだろうか。それでまた、重厚長大な生産が復活してきたのだろうなあ。ちゃんと両手を動かしているのかなあ。そこで問題だ。では、この次は何が来るのだろうか!この先何が起きるのだろうか。、、、歴史を振り返れば、大きな流れからイメージは想像出来るはずだ。この国の歴史は、おおよそ300年程度の物差しで変化してきた。江戸時代から明治へ入ったのが、関が原の合戦並みの変化だとしたら、途中に、戦争が遇ったとはいえ、今はまだ、元禄の頃だろうか。明治の足音が聞こえるには後100年は掛かるのだろうか。だったら、今からの変化は何だろうか。やはり、これから暫くは、国全体の生産力の飛躍的増加に伴う社会の固定化というか、安定化というかそのようなものが見えて来るのだが、果たして、足元の景気はどうだろうか。


2005年9月10日
今日は朝から続けた作業を夕方の激しい雷を伴う豪雨で中断した。電池の切れかけたラジオから、落雷の度に大きなノイズに途切れながらも微かに聞こえてくるニュースで東大阪に雷雨注意報が出たらしい事がわかった。この雨雲のせいだろう。暫くすると突然、何も無かったかのように辺りが静まった。雨足が猛烈な勢いで一気に交野の山々を越えて行ったのだろうか。暫く聞こえない状態だったラジオから再び音声が流れてきた時には、どこの野球チームだろうか、21点も得点しているのがわかったが、その頃今日の仕事を置いた。毎日が仕事だ。出来るだけ前向きに、頑張ろう。


2005年9月9日
今日も朝から例の製作が続いた。思ったこと2点、 まず、NCを使った加工をしている所では、個人のそういった注文でも料金的には、システムが同じだから企業相手と同額だろう。それで、びっくり仰天なさった訳かなあ。しかし、超精密な加工は出来ても、我々のような手作りをモットーで来ている者からすると、そんなRくらい自分で切れないのか、となる。つまり、職人さんが生産活動の前面から次々に消えていく現象が、企業に多大な設備投資を促して、商品単価を吊り上げている。まあ、その間隙を突いて我々のような弱小企業にも出番があるのだろうが、、、。手作りの加工機を充実させよう。次に、2点目。灯台の人と例の液体窒素容器のことで相談していたのだか、途中夕立や落雷などがあって、電話が長くなってしまったのだか、話の内容とはさて別にして、流石に物事の現象を分析し、問題を詰めていく論理の展開は、ぴか一だと、我々のような中小企業の名も無い者が言うのも恥ずかしいが、痛く感銘した。日本を代表する大学研究機関のその中のさらにトップで第一線を突っ走っている若い先生の言には、大変な重みを感じた。矢張り、平々凡々と暮らす我々の考えている事の先が透けて見えるのだろうか、「ポテンシャルが大事ですよ」とついつい話が脇道に反れようとした時に、暖かく軌道修正をして頂いたり、「パラボラリックにね」と何気なく解り易く、論理を解説して頂いたりした。有り難い限りだ。本当に有り難い限りだ。それだけお時間をお取りしては、それこそ、この日本の将来に照らして大事な研究を或いは、わたし一人の為に遅らせはしないかと、不安に掻き立てられるような気がした程だ。否、或いは、逆かもしれない。そりゃ中にはびっくり変人も結構混じっているのだろうが、大半は、オールマイテーな、と言うか、こんな我々でも相手にしてもらえる相当な人格者で無ければ、それだけの凄い研究は出来ないのではないかとも思った。有り難い限りだ。象牙の狭き門は、最近、結構開かれてきたようだ。


2005年9月8日
今日も朝から例の製作。満足できるフリーハンドの水槽を今日もしげしげと見ていた。出荷するのが惜しくなってきたので、発送を2,3日延ばす事にした。実に良く出来たものだ。こんなのを作ったらどうか、と最初に提案されたのは、東京の光設計の鈴木さんだったのだ。流石に、卓越した柔軟な発想をお持ちの発明家だ。ここまで製作するのに人件費をゼロとしても幾ら位になるんだろうか。解らないが、開発費と思えば個人的には大変満足な訳だ。少し空いた時間で、次の加工用機械の組み立てに掛かっていた。こちらは、経費はほとんど掛かっていないので、気が楽だ。綺麗な掘り込みのドームが出来ないかに挑戦するわけだが、これによって、漸く例の天体観測用簡易ドームを発泡スチロールで作ることになるので、もう2年も過ぎたが、あるお客様のご要望につながる品物だ。まあ、2年も過ぎれば、遠に、そのお客様は他へ行ってしまっておられるだろうが、未だに当社で、そのご要望を叶えようとコツコツ積み上げていることは、恐らく全くご存じないのだろう。まあ、それでもいい。やがて陽の目を見る時があるだろうから、こうして少し又少し、前進していこう。また、どこかで写真をUPしておこう。

或るお客様から、神奈川のほうで、最近、発泡スチロール業者が1社なくなったと言う内容の有り難い情報を頂いた。折からの厳しい情勢の中で、構造不況期以上に深刻な勝ち残り合戦が続いているのだろう。ガソリンも130円を超えるというし、業界は、また次の大きな”TUNAMI”に襲われている現状をまざまざと思い知らされる内容でした。今年に入ってから、こうして表舞台を去って行った所は、もう何件目になるのだろうか。4月にも或る大手が去って行ったとお伝えしたばかりだ。実に残念だ。一方、海の向こうでは、アメリカのニューオーリンズを襲ったハリケーン禍は、その深刻な情勢から見て、どうやらその国の進路を変えそうな勢いというか雰囲気を感じますが、アメリカの発泡スチロール業界でも、恐らく、中小企業レベルでは、相当激しい浮き沈みと人間模様が繰り広げられていることは、想像に難くない。日本の比では無いのだろう。何しろ、直ぐに撃ち合いや略奪の起きる先進国だ。まだ、日本に住んでいて良かったのかも知れない。


2005年9月7日
今日も朝から例の製作が続いた。発泡スチロール製淡水魚用水槽が大体出来上がった。かれこれ、3年、オーダーメードの手製の水槽を作り出してこれでもう200個は優に行ったと思う。長さ855mm縦500mm高さ350mmの水槽を見ながら、上手に出来たものだと我ながら感無量になった。なおも、巧く出来ているとため息混じりに思った。ただの水槽なのだが、本当に数々の試練を乗り越えてここまで来たものだ。安かろう悪かろうの路線では無い。手作りの本物の良さを追求するというこだわりとは、このことだと、これだけ数を重ねてくれば、、、重ねてきた人にしか解らないであろう味わいがここにはあった。ただ、問題はこれでは食っていけない値段だと言う点だけか、、、ほとんど自己満足だけの経営サイド無視の製作だった。製作技術のみの追求に走って来た。いやいや、まだ暫く、技術を磨くべきか。、、、何の為に、、、、zzz zzz、zzz、おっとまた眠ってしまった。夢で、○井○友銀行に行った中学の同窓生のO田くんが出て来た。そう云えば、昨日は近くに出来た京都信金の外向マンが営業開拓に来ていたのだが、どうもその人とO田くんのイメージが妙にだぶってしまったのを思い出した。我々と同世代なんだろうか。決して言葉巧みな方ではない人だったが、この歳で外回りということは相当先が厳しいのかもしれない。そんな世界だろうか、、、、夢の中では、○田くんはいつものように淡々と勉強していた。いつものように『英語の構文150』を厚いめがねのレンズを時折直しながら、めくっていた。そして、受験戦争の真っ只中で、わたしは、空回りしていた。あれ、もうこんな時間だ。では失礼


2005年9月6日
今日も朝から例の製作が続く。少し、また少しと続けていくより他にない開発の仕事が待っている。植物系のトウモロコシで出来た樹脂のお問い合わせもある。思いもかけない用途に驚くばかりだが、需要の開拓は、地味であっても、積み重ねによってやがてまとまれば供給の力をつくり出せるのだろうか。有り難いものだ。台風性の強風が時折吹き荒れる中、水耕栽培用水槽に浮かべたホテイアオイに紫色の花が咲いていた。

  村雨の 露もまだひぬ アオイ葉に 霧立ちのぼる 秋の夕ぐれ

  さびしさに 現場を立ち出でて ながむれば いずくも同じ 秋の夕ぐれ


2005年9月5日
今日も朝から例の製作が続く。有り難い事に様々なお問い合わせが朝から続いた。時間を見ては又別の加工機の試作にも掛かった。これはその既製品の業者では製造停止になったものだ。売ってくれないならこちらで作る他ない。何故製造停止になったかと言うと、その機械の開発者が図面を持ち出してその会社を急に辞めていったからだと聞いた。それ程、大した機械には思えないのだが、それで、仕方なく、こちらで有り合せの部品を集めて、またそんな加工用の道具を製作することにしたのだった。勿論、予算が無いので、全くの有り合わせと、後はインスピレーションだけだ。以前在職し、成型機の機械調整や8トンボイラー、給水機、コンプレッサーなどの管理主任もしていた、あの発泡スチロールの工場では、何でもかんでも自分達で機械を製作していたような記憶がある。終いには発泡スチロールの成型機まで作ろうと言う話も出ていたし、小型圧力容器も無断で製作し始めていたものだ。そして、極めつけは、例の情報を記憶するという妙な伝説の得意な当時の社長が持ち込んだ謎のセラミック原石を使って、発泡スチロールの金型を洗浄し、成型サイクルを飛躍的に向上させる所まで進んだものだった。8キロの蒸気、一日1000tの地下水を純水に変え、5キロの圧縮空気、それらを思う存分使って、あの頃一体密かに何を計画し、何を実行しようとしていたのだろうか。技術部門に属する現場は、時として大変な飛躍を会社にもたらす事もあるのだが、反面、日常の殆どは考えてみれば、とんでもないことの積み上げなのかも知れなかった。ただ、お陰で、大変有り難い事に、溶接もガスも覚えたし、勿論ボイラーは1級だ。様々な機械の基本工具にも習熟出来た。それらは皆、亡父が生前、「自分で覚えろ」と一蹴して決して教えてはくれなかった技術ばかりだ。

  秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる亡父の 影のなさけさ 


2005年9月4日
小学館の漫画『ドラえもん』 第39巻の150ページ 「のび太の模型鉄道」という話の中に、発泡スチロールが登場する。机上で9mmゲージのパノラマを作っていたのび太が、スネ雄にばかにされて、こんどはドラもんに頼んで地下に巨大な鉄道模型のパノラマを作るという話だが、その中に、山や丘を製作するのにその土台として発泡スチロールを使ったという場面が描かれていた。初版が89年1月25日。何でもない事かも知れないが、発泡スチロールがどうして市民権を獲得していったかの移り変わりが大変良く解った。


「発泡スチロールの山なんて感じでないなあ」
「けずって色をぬってパウダーをまいて、木を植えれば、ちゃんと山になるよ」

漫画『ドラえもん』第39巻より


2005年9月3日
近くの交野第3中学校の先生が見えて、発泡スチロールを売ってほしいというので、どんなサイズがご入用ですかと尋ねたところ、「生徒達が、文化祭で体育館のステージに吊り下げたりする切抜きの大きな文字を作りたいというので、切り抜いた大文字をひらひらしないように、後ろから押さえるのにどうするのか、と聞いてみると、発泡スチロールはどう、というのです。でも、ホームセンターとかで見ると、結構高いし、これだけの分量になると、どうしようかと思っていました。」こういう時は、不思議とうまく回転するものですね。昨日、近くの材木屋さんからご注文のあった、建材用発泡スチロールの特殊寸法を加工した時に大量に出ました残りが、偶然積み上げていた所でした。このまま、リサイクルのラインに乗って再資源として使われていくのもいいのですが、学校の子供たちに役立てて頂くのも又、いいものだと思いました。きっとその材木屋の若旦那もこんな特殊寸法では余って仕方がないのですが、こういう使われ方なら、ご納得でしょう。大きなワンボックスカーで見えられた先生は、後部座席をすべて倒して、車がパンパンになるまで詰め込んでお帰りになりました。本当に暑い中ご苦労様でした。文化祭、うまくいきます様に。では失礼。


2005年9月2日
有り難い事に今日も朝から各種製作が続いた。少し時間が取れたので、先日来ご依頼のお寺の釣鐘曲線カーブの製作に例の自家製球面体加工機に改造を加えていた。中心が一定のR加工ならば、円運動させて回転を立体にすれば良いだけなんだが、こういった楕円体加工になると、そうは行かない。そこで、これまで本体を移動させる仕組みであったのを本体を固定に換え、カットする方を移動側にして、全体に動きを簡単にした上で、楕円運動を手動にしてみた。恐らく、全自動で動く旋盤の3次元加工機ならば、基本的な動きはこれと同じで、後はざぐりのドリル刃がついている鋼鉄製のものになるんだろうか。まあ、こちらでは、イメージとしては、ロクロで回転させながら掘り進んでいるといった所だろうか。後ほど写真を掲載しよう。


2005年9月1日
ようやくあと残り、丸2ヶ月になった。このページを開いてから、それでちょうど3年になるので、一応終止符の予定だ。早いものだ。と言うより、最近は1週間が過ぎるのが嘘のように早くなった。毎日が、平準化したマンネリではない。毎日が変化に富んだことばかりがあるのだが、それでもどうしたことか、1週間過ぎるのが早い。今年は、1月に沖縄の小説家Nくんの奥さんが開いたらしい『カラカラ』という飲み屋を見にわざわざ飛行機に乗って行ったのだったが、あいにく、Nくんは風邪で体調を崩し、会えず仕舞いだったし、2月は、Nハム研究所の所長からついに目出度く、社長にまで登りつめたSくんの誘いで、Nハム新作発表会の試食会に行く予定だったのだが、行けず仕舞いだったし、3月は、浜松の今年80歳になられるパソコンソフトの研究大家に会って経済ソフトの相談に行く予定だったのだが、行けず仕舞いだったし、4月は、風邪と花粉症で寝込んだりして何処へも行けず仕舞いだったし、5月は、イッツアsの研究主任をしているM君が突然の抜き打ち結婚を沖縄で熱く決行したというので、贈り物を発泡スチロールで製作していたのだが、結局本人に未だにそれを送れず仕舞いだったし、6月は、愛地球博に行く予定だったのだか、急な用事がずっと重なりとうとう諦めて行けず仕舞いだったし、7月は、伝説の障子貼り職人Iくんの1周忌に京都に集まる予定だったのが、行けず仕舞いだったし、8月は兵庫県の「グリーンピア三木」に1泊して大温泉で一汗流す予定だったのに直前になって、予約の葉書を出していなかったのに気がついて行けず仕舞いだったし、代わりに行った近くの市民プールにも大混雑で中に入れず、結局8月は過ぎた。


2005年8月31日
古い親戚の一人が、戦前神戸の旧制甲陽中学で歴史の教鞭をとっていたらしいことを最近になって知った。大変怖い人だったらしく、戦時中、ある親戚の娘さんが2人でお使いにその人の家まで行って、夕食をよばれたところ、焼き肉が出て、残してしまったらしい。何しろ戦時中で皆、粗末な食事ばかりで、お肉を食べたことがなく、慣れない味につい食べ残したそうだったが、「残すとは何ごとか」と烈火の如く、怒鳴られたそうだ。先生にしてみれば、親戚の娘さんが2人も折からの大変な戦時状況の中、遠方から来ると言うので、わざわざ肉を買って来ていたそうだったのだが、戦争中のちょっとした逸話として、今もって親戚の間で語り継がれている。神戸大空襲の直前だったそうだ。その後、その人との音信は途切れて終戦を迎える。戦後はあっと言う間に60年が過ぎる。また、そんなことがあったんだと、噂に上っては、一抹の泡となって消える。

     忘れじの 行く末までは かたければ なにを歴史の 語りおきなん


2005年8月30日

時代は明らかにデフレからインフレに入って来たようだ。石油の急激な価格上昇で次第に他の商品価格に波及して来たからだ。ある総合石化大手が又30パーセントの値上げを言い出した、と今日のニュースのテロップに流れていて、ため息ともあきらめとも付かないものが漏れた。しかし、ここまで来て、金利に動きがないのはどうも不可解だ。80年代なら、しょっちゅう上げたり下げたりしていたような記憶があるのに、この10数年は余りにも意図的なものに思えて仕方がない。余程、国債の値崩れを嫌う向きが強いのだろうか。何を待っているのだろうか、解らない。それとも、知らんぷりして、また元の笠に戻るのを待っているとでも言うのだろうか。経済はだから生き物の様に見えるというが、これは、どうも違いそうだ。このままではきっと、ある時一斉に金利を変えるのだろうなあ。皆で渡れば怖くない、ということだろう。いや、もう既に高利貸しが銀行以上にテレビで宣伝して茶の間に入り込んでいるのを見れば、先行して上がるところは上がっているので、この状態を続けているのだろうか。人は10数年同じ状態が続けば、殆どその状態に慣れてしまい、次の変化を大変警戒してしまうものだ。しかし、土地や商品があれもこれもと上がり出せば、ようやく、誰かが最後の決心をすることになるんだろうか。我々のような、ちっぽけなHP運営サイトでは、どう転んでもそう大した影響力はないので、ここは、その時期を的確に推測ぐらいはすることが出来るだろうし、書き込んでもまず問題はないのだろう。金利が上がればまた商品が上がり、上がればまた金利が上がるスパイラルが起きるのだろうなあ。原油が2倍で石化商品が1,3倍×2回分=1,69倍になるんだから、金利がその上げ幅の100分の1だけの、1,69%上げても痛くも痒くもないはずだ。その時期はいつだろうか。昨年は東京で点と点の土地値上がり、今年は東京で面の値上がりと大阪で点と点の土地値上がり、来年は大阪で面の値上がりとその他の都市での点と点の土地値上がり、ではその次の次ぐらいで全国一斉に土地値上がりで、その時位が一番無難だろうか。


2005年8月29日
どういう風のめぐり合わせか、有り難い事に今のうちに新しいことに取り組んで見る時間的余裕があった。しかし、さてその新しいことに取り組もうと思うと、今までも、あれこれ、確かに無数の新しいことにチャレンジしてきているのだった。あれもしたいこれもしたい、と、そうだ。先日あるところで見学して来た完全全自動で発泡スチロールブロックを使って立体の様々な型を作ってしまうという1億5千万円もする最新式の加工機までは、夢のまた夢なのかもしれないから、こちらでは、フリーハンドで手作りを前面に出して、小回りをモットーに取り組んでいくべきかもしれない。例の球面体の手作り機械もそうだったが、後は、意地と踏ん張りと我武者羅な情熱で頑張る他に無さそうだ。、、、七転び八起きと言うが、この情熱は大切なようだ。なぜ仕事に取り組むに情熱が大事かというと、もう8月も終わりに近づいたというのに日中34℃になる暑い中、これがなければダウンしてしまうからではない。例えば、例のとうもろこし樹脂の件だが、、、、、おやもう時間がない。ではまた


2005年8月28日
と言うことで、今日も特に何も無い。「熱抵抗値の計算方法を教えてほしい」と、ある材木屋さんから問い合わせがあって、断熱材の厚さ÷1000÷熱伝導率 で単位がuwkになるかどうか調べていた。勉強になるものだ。断熱基準で決まりがあるのだ。それに合致しているかどうか、こういった数値で確認している所があるわけだ。返事が来ない。おや、番号を間違っていた。

   名にしおはば 寝屋川坂の さねかづら 木レン 連綿 一字違えど くるよしもがな

   難波潟 みじかきあしの ふしの間も 哀れで この世を しごとしてよとや


2005年8月27日
やがて働くこととは何か、を問うことになるのだろうか。やり甲斐があるのかどうかを夢の実現に向けて我々が働くことの唯一の目的であるとまでは言えないだろうが、夢の実現とは無関係であっても、何年もその職で働いていると、いつしか仕事に慣れてきて、何となくそれらしいやり甲斐を見つけて有頂天になることも時にはあるのだ。逆に、仕事に慣れるまでの或る一定期間、そんな夢もなくやり甲斐もなく、暗いトンネルの中を一人さまよい続けている期間は、当てもない日々を気分的には相当な重労働に耐えていかなければならない。この仕事は自分の性格に合っていないのではないか、自分の能力を生かせないだろうか、職場の周囲のグループに溶け込めないのではないかとか、何でも後ろ向きに考えてしまうのだ。それでも、出口が見えるまで懸命にその同じ仕事で頑張っている場合もあれば、さっさと諦めて次の職を探すこともあるだろう。やり直しだ。夢のある仕事を求めて、今度は社会の中を、彷徨っていかなければならない。これでいいのかと自問自答している暇はない。まあ、自宅から通う若者にとっては、まだ雨風をしのぐ屋根の下で、ぶらぶら出来る訳だろうが、少なくとも仕事を求めている本人にとっては同じく苦しいものだ。ここで、次の仕事を探すとなると、最早、誰も待っては呉れないので、厳しい選択をしていく他に無いのだろう。夢の実現を目指していた心算が、ほとんどの場合、妥協を余儀なくされるのだろうか。何故なら、職安で求人の伝票を手掛かりに、或いは人材派遣の相談コーナーでどこまで真摯にその夢の実現をアドバイスしてくれる第3者機関があるだろうか。残念だが、多くの場合、既成の職業選択のプロではあっても、個々人にとってそれぞれ違った夢を運ぶ天使ではないのだ。手元のわずかな蓄えが底をつくまでに、働かなければならないのだ。ぐずぐずしていては食えなくなる。たとえ、僅かであっても、食いつなぎに小銭を稼いで、その場を繰り抜けなければならない。運良く、何とかなりそうな以前より少しは楽そうな仕事が見つかるなら、その夢は、しばらくお預けとなることが多い。では、どうするか。


2005年8月26日
「何が大事かと言えば、その仕事には、夢があるのか無いのかだろう」、と誰かが話していた。多くの若者がそんなことをしてみたいと盛んに真似をしたがるようなこと、生涯をその仕事に賭けてもいいと胸を張って誇れるようなそれを探すこと、これは結構大変なものだ。我々中小で働くものにとって、その問題とかなりドッキングして、その仕事で食って行けるのかという これもまた大変な問題が付いて廻るからだ。国の伝統工芸に生き甲斐を見出したり、各種資格で規定された技術職に生き甲斐を求めるのなら、問題は平準化するだろうが、100人いたとして、それは5人にも満たないだろう。90人近くは、中小企業で、恐らくは、この問題とその仕事に夢があるのか無いのか、とは、また別に分けて、毎日を生きていかなければならないのかも知れない。しかし、だから夢を失って毎日を暮らしているのが大多数の大人だ、と言うこともできないだろう。様々な所で実に様々な仕事を、殆どは皆真剣な表情で前を向いて働いているではないか。夢を見失って働いているとはどうしても思えない。では、ここで我々が見ている夢とは何であったか。どういったものに、最終的に納得してそれを追いかけるようにして働いているのだろうか。或いは、上記のような発言のように、その我々の見る夢と若者が抱く、或いは抱くべき夢との開きは、何だったのだろうか。


2005年8月25日
特に書き留めることがない一日だった。例の如く進んでいった。途中、急遽、近くの郵便局まで出向いて、「郵便振替口座」の開設を申請してきた。先日も、ある東京の高校生から「支払いを郵便振替で出来ませんか」といったご質問があったところだったのだ。この9月にパッチワーク通信社から発売予定の『癒しの小物特集』__雑誌名”リラックスグッズ”の通販を当社が担当することになっているのだが、この中で、郵便振替が必要になることが、原稿のゲラ刷りで発見したからだった。それで、急いで郵便局の窓口まで走って、「直ぐに口座を出してください」と頼んだ。運良く、先日、洗濯機で綺麗さっぱり洗濯して全く使えなくなっていた携帯電話を解約し、新規で申請するために、会社の登記謄本を取り寄せたところだったので、申請はその書類を使って直ぐに出来たし、口座番号も決まった。有り難いものだ。まあ、本当のところ、この企画で、第一線の現場の出版社の仕事がどれだけ大変だったか、随分と勉強になった1年であった。たったこれだけのというか、重さにして800グラム程度(?)の雑誌だが、企画から発売まで実に1年を要しているのだ。ようやく、9月中頃には陽の目を見るのだが、その間、第一級のデザイナー方を集めたり、NHKの講師に何度も何度もお願いして癒し系の小物を作って頂いたりして、苦労を重ねた上での出版だから、関係者にとってはそれはそれは嬉しい限りだろうし、期待に胸膨らむことだろうが、こちら側からすると、どうもまだ、蓋を開けてみないことには、海のものとも山のものとも解らないところがある。これだけ時間と労力を注いでの企画だが、本当に収支計算は合うのだろうか。恐らく、これにしても、大手のサラリーマン営業マンなら面倒がって、最初からこの企画には乗って来なかった類のものかもしれない。まあ、結果は別にして、これだけ、現代の時代感覚としての芸術的価値のある雑誌、或いは少なくとも幾十余年後も博物館的価値は十分にある雑誌に、フジカットの名前が入るのだから有り難いものだ。あれこれ悩まされながらも、こうして少しでも宣伝になればご同慶の至りだ。


2005年8月24日
今日も朝からとんからりん とんからりん とんとんからりんとんからりんの在庫積み上げ作業。昼から例の配達が一件。反対車線に、いつものところでいつものように「ネズミ捕り」の取り締まりがあったのを横目で眺めていたが、ノンヘル2人乗りの若い男達の500ccバイクが猛スピードで、「ネズミ捕り」に向かって走っていくのが一瞬見えた。後ろのランニングシャツで日焼けした肩にはシルバーのギンギラネックレスが踊っていた。既成観念を突破して力強い創造をしていくのは若者の特権かもしれない。しかし、時として暴走も起きる。 振り返ると前方で取り締まり係りの人が大きな旗を振って、バイクを停止させられていた。


2005年8月23日
ようやく あと2ヶ月程で予定通り、現業と掛け持ちで続けていたこのコーナーも丸3年になるので、「わたし」は降板し次の方へ担当の交代が出来る訳だ。思えば3年は長いようで、あっという間だった。例えば小さな中学1年生がこの前入学式だったのに、あっと言う間に大きくなって、卒業式まであと少しになった位のものか。まあ、兎に角、あと少し頑張ろう。今度は、誰が何と言おうが、お約束通り、交代させてもらおう。どうも、これだけ粗悪文章の大量垂れ流し製造にも少々疲れてきた。と、言って、、どこかの作家が話していたが、儀一氏だったかなあ、作家が家業なら、毎日原稿用紙20枚30枚はノルマにして書き続けて2,3年頑張れば、自分の文章も出来上がってくるものらしいが、そこまでも行かない。中途半端に 毎日駄文数行で気休め程度に書き続けた3年に過ぎないので、そんな文字書き作家職人にすらなれないだろう。この程度では、決して褒められたものではない。誰が金を出してまでこんな文章を読むだろうか。そう考えてみると、正に無駄な3年であったのだろうか。残念だ。忍びない「中途半端」そのものだ。どうぜなら、もっと職人気質に、ずっと心理描写に凝って、それ一点で来た方が集中出来たかもしれない。もったいない。テーマにしてもばらばらだった。なにも決まっていない。そもそも、こんなコーナーは一種のエンターテイメントであったはずだ。ここでひと笑い、笑ってもらえばいいのだ。あるいは、ここで一呼吸、すっとしてもらえればよかったはずだ。あるいは、他山の石で、大いに納得してもらえればいいのだ。あるいは、同世代、同時代人、として、又あるいは、同じ働く者の 共感が得られればよかったはずだ。情けない。何一つ成果らしいものが見えてこなかった3年間だ。また、古巣へ戻って書いて行こうか。


2005年8月22日
ということで、今日も朝から各種製作。また、急な用で、サンプルのご依頼が入った。これも複雑系の図面からの製作依頼であった。最近は、線を引くのがPCになってからやたらと難解な図面が増えてきた。昔は点線と実線は直ぐに区別できて当たり前であった。ところが、もう、補助線なのか、どうなのかさっぱり解らないものも結構多い。PC画面上は光の強弱でそれでも解ったつもりで書かれているのだろうが、一度、プリントアウトされてしまうと、何が何だかさっぱり解らない線になってしまうのだ。困ったものだ。だから、立体図やイラスト等を頼りに、あーでもないと考えて、線を追いかけていくしかない。しかし、それでも何年も重ねてくると、人間誰でも 慣れてくるものだ。そう言えば、或る発泡スチロールの会社で金型製作の子会社を営んでいた親戚のおじさんがいたのだが、最近は、あの発泡スチロールの社長共々、全く音信がない。「発泡スチロールの機械金型の図面だけで10000枚は引いた」と当時、盛んに豪語していたのだが、今から考えてみると、謎に満ちた人であった。不可解極まりない妙チクリンな親戚であるのだが、金型製作の社長業などもさることながら、突飛な行動を起こす人で、、、、っと、親戚なのでこの辺りにしよう。こんな小さなHPだが、誰が読んでいるとも限らない。一つだけ、どうやら、70歳を超えたというのに、また何か新しいことを お始めになったらしいとだけ、記しておこう。至る所青山在り。

       騒ぐな五十 驚くな六十 うろたえるな七十 諦めるな八十 いい子振るな九十 まだまだ百 


2005年8月21日
たった5年で大儲けをした人の話を聞いていた。現在ではインターネットという荒海があって、上手に波乗りなどする人も中にはいるのだろう。これが、アラビアンナイトの時代なら、小さな帆船で 大海原に大冒険の航海に乗り出して、宝島でも見つけたのと同じだろうか。シンドバットのように7回も冒険を繰り返したら、大金持ちになりそうだが、冒険に危険は付き物で、命からがら逃げ帰ることは度々だったろう。、、、と、で、発泡スチロールだった。これで大金持ちを目指そうとは思う訳なんだが、んーん。んーん。まあなぁーその日その日が何とか過ごせたらそれでいいのかも知れない。、なるようにしかならないものだ。では失礼。


2005年8月20日
朝から例の製作が続く。現在、何とまあ、碁会所に住みこんでおられる元M下の音響におられた方が見えた。先日の急なサンプル依頼に続いて、「また頼むよ」と言って足早に、自宅兼碁会所に碁を打ちに戻られた。碁には相当、はまっておられるのだろうか。寝ても覚めても、碁会所には方々から碁を打ちに同好会のメンバーが集まって来るそうなので、正に寝ても覚めても碁のことで一杯の余生なんだろう。好きなことがあるというのはいいことだ。
東京学芸大学の坂口先生からお手紙と資料が届いた。例の若い子供たちのための(中学高校高専3年まで)「 『エネルギー利用』技術作品コンテスト」が今度、8回目は東京でするので、良かったら、後援してほしいと言う内容で、昨年第7回の時の作品集が同封されていた。それで、早速、当社HPにその紹介のページを開いていたのだが、どうやらまた未完成のまま机で眠ってしまった。今日はここまでになる


2005年8月19日
今日は書き残しておくべき不思議な事が幾つかあるのだが、なかなか時間がない。ひとつは、本当に不思議なんだが、奈良方面から市役所の社会教育課の方々が、例の市民でつくる「秋祭り」の件で打ち合わせに見えたのだが、「ガチャガチャの巨大なものを作りたい」と言うお話であった。ところが、本当になんというグッドタイミングなんだろうか、何日か前、そのメーカーの方から、全くの別件で(そのガチャガチャの台を製作してほしいとのご依頼で)、実物機を数台預かったところだったのだ。だから、この社会教育課の方々と、秋祭りの催し用に考えられている『巨大なガチャガチャ』の機械部分の構造が、最初、想像で図面を書くしか無かったらしいのだが、「本当に助かります。内部はこんな風になっていたのですね」と実物機を目の前で、皆さんで分解しながら、一番大事な機械部分の見えないところを見ることが出来た、と言う不思議なところだ。お互いに大助かりであった。本当にかたじけない限りだった。点と点、地域も数百キロ以上離れている。時間も時間だ。もしこのお話が、何ヶ月かずれていたら、全くすれ違いに終わっていただろう。まるで、この時の為に、「はい、現物をどうぞ。そんな想像の図面じゃ、折角の秋祭りだ、いいものは出来んぞ」と誰かがご用意して下さった様なものだ。その、点と点が不思議に重なった瞬間だった。その方は、余程、世のために、良いおこないを積んで来られたのだろうか!それとも、その市と市民の方々には、余程善良な方々が大勢お住まいなんだろうか。あと一件、もう時間が無いのだが、東京の方からの発注にまつわる件だが、これも不思議だった。いわゆるアンビリバブルな出来事だった。まるで、ゲームの出目で「7777」が起きたような驚きだった。 時間切れだ。では続きは次回で。失礼


2005年8月18日
ろくに一考を披露する時間もない。気がつけば、こうして机で眠っていた。原油が上がっている。やがて商品市況は皆上げ出して、土地まで上がりだすのだろうと、書いたのは1年前だ。早いものだ。そうして、あと1年もすれば、インフレ症状をはっきりさせるのだろうか。我々のような中小企業には、価格転嫁もままならないので、これからが正念場というものだ。企業努力は、乾いたタオルをさらに絞れという以上に、粉々に破れてもまだ絞れ絞れと言って来るのだろうなあ。ではどうするか、よく考えろよ。さあ、次をどうするのか、次はさらに細い細いわら縄の上を綱渡りなんだ。しっかり、前を見ないといけないぞ。、、、、それは、確かに、もう30年も前になるが、中学や高校の頃の受験勉強や、進路に悩んでいた頃と何故か共通するものがあるような気がする。あの頃は、勉強しているなら当然だが、ぶらぶらしていたり、友達と遊んでいたりしていても、本当は皆んな、不安で一杯だった。これから先、自分たちはどうしたら良いのか、先のことを考えてみようとするのだが、所詮先のことなど、そうはっきりと判りっこないからだ。勉強と暗記の世界に没頭したりして、そのことから逃げてしまっても、ふと鉛筆を置いたとき、その将来に対する不安が心の中をよぎったものだ。自分は一体全体、これからどうするのだろうか。一体自分は何をしたいのだろうか、、と。そうだ。今もってその不安は細々と持続していた。こんな年齢になって、選択肢が減った筈なのに、こんな世界的緊急な状況の変化の中で、と今もって青年のような世界を背負っているような表現で書いているのだが、やたらと無用な選択肢をわざわざ増やしてきては、斯様に不安がっている。まあ、人生そんなものかもしれないが。


2005年8月17日
本当に有り難い事に、先日来、こちらの希望を伝えていたのだが、東京近辺の学生街にあると言うのに何故か「灯台」という変な冠名を配して、最近「黒字経営」で有名になり、お札になった大先輩の夏目漱石も驚きそうな、あの珍しい研究所から例の発泡スチロール製液体窒素特殊保冷容器の使用後の現物が届いた。一同固唾を呑みながら、開封し、使用後のその特殊容器を目を皿のようにして拝見した。確かに、今までなら、小容量で実験された液体窒素の発泡スチロール製容器は、幾度か見たことはあったのだが、今回内容量117リッターという、液体窒素を入れる大変大きな発泡スチロール製容器(自社製作)のしかも実際にご使用になって幾らか時間経過したものを見るのは始めてだった。一番肝心な、容器内側の表面をつぶさに観察出来たのは、この上なく有り難い事だった。これ程のチャンスは後にも先にもそうそうざらには巡っては来ないだろうというものだ。だから、重ねて有り難い。この場をかりて、お礼申し上げる次第で御座います。この ご使用後の不思議な容器を拝見させて頂く機会を与えて下さいまして有難う御座いました。お電話でお聞きしたり、図面を見たりするだけではなく、矢張り、その製作者が実際に現物を見ると、いろんな事が見えてくるものですね。そして、マイナス190度と言う極低温の液体の不思議な性質を改めて、考えてしまいそうです。それは、流体であり、圧力を持ちながらそれ以上に、マイナス190度と言う凄まじいマイナスのエネルギーを持っているというイメージでしょうか。以前、テレビの番組で、あんこ入りパンの自動製造機を発明した会社が、発明までに10年かかって借金を何億もかかったり、時計の文字盤を自動でフイルム貼り出来るような発明をした会社も、発明までに15年かかり、借金が10億円もかかったり、また、軍手の自動編み機を発明するまでに10年と6000万円の借金がかかったりした会社の話をしていた事があったのを思い出した。また、ラジオ放送が始まった当初、真空管ラジオを作って大儲けした会社も電卓を開発するのに相当な時間が掛かって行ったという話や、その他研究開発に付き物の、延々と時間と経費が掛かって行った末に何とか大成功を収めた幾つもの話を次々に思い出した。これがそうならない事を祈りたい。


2005年8月16日

今日も朝から例の製作。水耕栽培用の例の変てこなフロートの製作などが続いた。周辺の工場はどこも休みで極めて静かになっているので、前の道を走る車のエンジン音が、随分先まで聞こえる。継続は力なり、とよく言われるが、続けて書き込みしていくのは、結構大変なものだ。特に話題を余り振れないようにしながら書いているのだが、限定してしまうとなおさらだ。だから、時々あるいは、頻繁に脱線して書くことになるのも仕方が無いのかも知れない。っと、もうこんな時間だ。では失礼


2005年8月15日
盆休というのに急ぎの製作が入って、朝から4時頃までそれに取り組んでいた。時間がない。今日もこの辺になりそうだ。1行コメントになった。では失礼。


2005年8月14日

昼まで、例の水耕栽培用フロートの急ぎの製作。その後、寝屋川の駅前のスーパーの一角に、発泡スチロールを使った『浮き輪すくい』の新型ゲーム機が置かれていると聞き、大枚100円を払って、試しに1度そのゲームをして見た。確かに、あれはどこかのビール会社のロゴカラーの発泡スチロールが、浮き輪の台に使われていた。どこをどう回って、ゲーム機の一部に使われるようになったのか、面白いものだ。その横には、蛍光塗料で中に発泡スチロールの生ビーズを入れた『虫キング』人形があった。面白いものだ。よく見ると様々なところに結構沢山、発泡スチロールが使われているのだ。


2005年8月13日
時間が過ぎるのは早い。20年、30年前と同じようにしている積りなのだが、何故か解らないが時間の過ぎるのがどんどん早くなってきた。工業団地の一角にある、とある発泡スチロールのメーカーの工場の隣に、5000坪ほどの大きな木工の会社があったのだが、しばらく疎遠にしていたので今頃になってちょっと見に行って来た。あれは16年前だろうか、そこの専務氏の結婚式に知り合いが招かれたことがあって、式場まで送って行ったことがあったのを憶えている。その時、そこの専務氏とお会いしたのだったが、まだその頃は、電気製品の外装に多くの木製品を使っていたので景気もよかったのだろうか、目がぎらぎら輝いた人だった様に思う。確かに、諸行無常だ。その工場の跡地には、今では背丈の長いペンペン草がおおい茂っていた。建屋だった部分の白いコンクリートの柱の根元30センチだけが残されていて、それが、広い敷地に等間隔に並んでいるのだが、所々つる草で覆われて見えなくなっていた。だだっ広いだけの、誰もいない廃屋さえも、無残に朽ち果て、異様な荒地になっているので、『妖怪大戦争』でも起りそうな雰囲気すら漂っていた。そこで働いていた人達は、今ではどこへ行ったやら、現場で目をぎらぎらさせていた若き専務は今ではどこへ行ったやら、全く音信が掴めない。産業構造の変化と呼ぶのは容易いのだが、現実にはこうして、時として、劇的な変化となって目に見えて来る物なんだろうか。こんなことになっては、誰一人助けてもくれないし、振り向いてもくれないものだ。相当激しい人生模様も繰り広げられたのだろうことは容易に想像がつく。あの、優雅と過剰な自信とは裏腹に、急転直下、アリの巣をつついたように、きっと皆、ちりじりばらばらになって行ったのだろうが、ぺんぺん草に覆われた柱の残骸では、何も教えてくれなかった。


2005年8月12日
今日も朝から例の製作が続く。とある研究所に電話を入れた際、お盆はいつからですか、と聞いてみると、すかさず「弊社は盆休業は設けておりません」との返事が返ってきた。バイオで新種の研究開発が延々と続くので、24時間体制で盆正月無しだったことをうっかり忘れていた。植物は、育つのだろうが、そこに10年も居たら、人まで伸びてしまいそうだが、余程、研究が好きで、研究一筋の桃太郎印の鬼か、ちりじりの毛むくじゃら虫のようにならなければ、世間によく通った社名とは裏腹に、そこでは、続けていけないのだろうか。正に大変な研究を続けておられるようだ。不思議の工業立国日本を底辺で支えてきたのは、こういった現場の張り詰めた緊張感の絶えることのない継続と、それを内なるところから可能ならしめてきた、求道者のような意思だろうか。彼ら、そして彼女達は何を求めて、その研究に自らの大切な人生を投げ打って、打ち込んでいるのだろうか。数百万本の試験管が、全自動ベルトの上を、まるで映画『スターウオーズ』のクローンの兵隊が整然と並んで行進しながら宇宙貨物船に乗り込むシーンとダブるような感じで、ゆっくりと回りながら動いていく。そして、これはと言うものを見つけては、抜き取りチェックを続けていく大変なお仕事だ。次々と成長点が来ては、止めることは決して出来無いわけなんだろろうか。100年に一度有るか無いかの発見を、そうして出来るだけ早めているのだが、それでも10年否、20年と過ぎていくのだから、我々のように下界で暮らす者には、雲の上の別世界だ。


先日、天保山を通過してOTCまで行った時のスナップだ。遠方に巨大なクレーン(通称 キリン)が見えます。その向こうに小さく停泊中の船が見えますが、そこまで行くのは断念しました。マイナスイオンを含んだ潮風は、ぎらぎら光る真夏の強い太陽の照り返しの中でも、気持ちの良いものでした。



2005年8月11日
一年の過ぎるのはとても早い。ホテル関係の園芸を一手に任されたお仕事の会社におられたSさんが、突然の急死をされたのが、丁度、1年前になる。それで、例の水耕栽培のお客さんの末端の現場へ、顔を出すことになったものだった。不思議な因縁か、どういう訳か、またその関係の仕事なんだが、巡り巡って、ここ数日、似たような事をしているのだ。だから、否応無く、Sさんを思い出すものだ。そうだ、もうお盆だ。帰宅し、夜になって、長浜の27代目の寺の坊主から、電話。「おい、偶にはおごれ」と丸で悪いタカリの電話だったが、イヤに懐かしい。「いい加減に、寺の仕事を真剣にしろ」と少しきつく言ったら、「諸行無常やで」と訳の解らない得意の禅問答を吹っかけたような返事が来た。確かに、27代目だ。禅問答は得意のようだったが、、、、





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