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「わたしの研究開発雑記ノート」

                                                                          
                                      


2005年1月15日
お問い合わせ有難うございます。ご指摘の通りです。小さなブロックシリーズの『ブロッくん』の商品写真が見ずらいとのことですね。時間がございましたら、至急に写真を更新させて頂きますので、どうぞもう暫くお待ち下さいませ。ご自分で人形をお作りとのことですが、専門的になされている方には、30倍 程度をお使いが多いですが、初めてということですし、カッターでの加工がし易いのはやはり柔から目の方でしょうか。

お便り有難うございました。

 「無事,クッションの中にビーズを納めることができました.、、、、、、貴社のビーズは,静電気が立ちにくく,サラサラと入っていきました.、、、できあがりの感触にも満足しています.量的にもピッタリでした.また何かありましたら,よろしくお願いします.」

 有難うございました。今後ともよろしくお願いいたします


 世の中は 常にもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも


2005年1月14日
今日も、まあ、懲りもせず駄文を綴っている。そろそろ、ページの更新時機な分量になって来たようだが、時間に追われている上に、更新のきっかけがないので、このままを継続している。継続はしているが、たらたらと書いていても時間の無駄になるだけだから、日々の自省を込めて、考えることの練習にしているつもりだ。むしろ、今では、少ない時間での考える練習の方がメインだろうか。しかし、もう、2年半近く、こんなことを続けてきたが、未だにその成果などといったものは生まれていない。分けの判り難い形容詞ばかり並べて、作家にでもなったような気分でいられる位だろうか。中で2,3それがあるとすれば、24時間常時、仕事とは一体何だろうかと考え、日々生きていく事に大変注意深くなっていないと、その考える練習用のテーマが発見出来ないと言う事実だろうか。会社の仕事というのは、若い人からすれば、学校の授業の延長のように退屈な狭い空間で拘束されて自由が利かないものだといったイメージを抱かれているかもしれないが、このような風が吹けば直ぐに飛んでいきそうな中小極細企業では、そうはいかないものだ。だから、見かけ上日々単調に書き込みがなされているだけでも、相当変化に富んだ実際の現場の頓着騒動が繰り返されているわけで、テーマになりそうなものを見つけ出すにはそれほど労はいらない。しかし、現場では、テーマになりそうなものが幾つか転がっていたとしても、何年も続けていくと、取り上げる側の力量というか、癖といったものが、壁に引っかかって、あれもだめこれもだめ となってくれば、それがスランプになってこれ以上書けなくなるものだろう。しかし、いまのところその症状は自覚できない。却って、豊富なテーマに泣いている位だ。今日も、毎朝放送局に電話して、例の件で督促をしていると、何となく、マスコミの世界というのが、派手に踊る見栄え良さとは裏腹に、その台所事情のかなり波があって厳しい現実を垣間見てしまった。世間で云うほどに余裕のありそうな世界ではないようだ。まだ、実験室の中で薬品の配合に時間の余裕がない方がましな気がした。どちらも同じだろうか、、、否、どちらも同じだ。 と、こうして年齢を行くと どんなことでも、そこに共通する人間の性を見てしまう。肩書きが違い、動き回る対象が違っても、生きとし生けるもの 我武者羅にそれなりに幸せを求めて齷齪している姿に、「がんばってや」と共感を込めてエールを送りたくなるのは、余計な人情だろうか。


2005年1月13日
我々はそれを最後の審判として、誇大に或いは必用に課題の通過儀礼というべきものの謂わば中心に置くべきではないのかもしれない。確かに、そこには圧縮された時間と空間が一定の法則によって表面上のまるで時代そのものを繕ったかのような錯覚と価値の欺瞞が潜んでいるようにも見えるのだが、だから、それが飛び越えなければならないハードルであり続ける訳はなく、却って、無視に近い威容を叩きつけてやった方が、サイの目は良くなるのかもしれない位だ。いやはやお説ごもっとも、何をするにしても、残念至極、当たり前の話なんだが、余りにも無我っ手な線引きが、あたかも金銭感覚という金科玉条によって、偶に、か細い赤インクが混じるだけの、白黒何もないのっぺらぼうのような台帳で引き裂かれるのが、仕方のない現実なんだ。だれがそんな身も知らぬ山賊の法螺が峠の待ち伏せのような審判に 何がわざわざ価値を上乗せて無造作にそれを越えて行くのか知らないが、数字にしてしまえば、逃げ遂せるとでも言いたげに、机の前の小さな台帳は、向こう意気強く、そこに横たわっているものだ。この発見、この技術、この正しい形状にこの時代の審判が、何を寡少に暴言をいわれるのかと、つい暗黙の紳士協定を棚に上げての物言いとまで発展したとて、恐らく、それはびくりとも翻りはしないのだろう。悲しいかな、これが娑婆の雨宿りよ、と一瞥に捨てる科白があればなおのこと 背に腹は替えられぬ。ただ黙って明日を向いて、次はこんな発見だ、こんな発明だ、こんな新技術だと、硬い枕にうなされて、現つ 未だ見ぬ夢を信じつつ、やっていく他ないのさ。聞くところによると、今年はアインシュタインが相対性理論を発表して100年、ニュートンが万有引力の法則を世に出して丁度400年になる輝ける物理の年らしい。然も在りナン、きっと時代の次がありそうだ。このHPを始めて、滾々と届く全国の研究所からのお問い合わせは、それを予感させうる。


2005年1月12日
夕方、あの研究所へ向かう往路は、真冬のこの時間にしてはまだ明るく、はるか遠方に、雪に霞む叡山が、まるで下界の喧騒と人々の怨霊を背にして、こうして、何気なく、時に激しく、天邪鬼に吹雪く姿をさらす事で、天から誰知れず、沈黙のみが、悠久の時代からその足元に都がおかれた 叡山にすれば「たった」なんだろうが、1200年間にわたって、我々のような精神の修行を生き様にする高貴なものとは正反対の 遠くはなれた街角の一角の路傍のなにがしに、まさに霊山からすれば、野垂れ死にしたところでそれが霞む雪の解けて流れる一粒にしか過ぎないのだろうが、そんな庶民にとってさえ、ささやかな生きる防波堤と魅せて、今もって戦っているのだと、沈黙が返って暴言に聞こえそうな雪煙のように、大山崎の谷間から見えた。あの研究所からの復路は、冬の早すぎる陽が落ちて、我々の住む大阪のこの町を、とてつもなく異様な黄金色に染め上げたかと思った一瞬、何か光の閃光か車のヘッドライトだったのか、この際、その事実関係を論理的に追及する仕事とは無関係で十分な条件なのだが、腐れきったシャバの世界を一突きにしてくれたのだろうか、その一瞬の閃光が、世界のすべてを消して黄金色に輝く西の空から、最後の正気を抜き取っていくかに見えた。しばらくして、大阪平野が一望できる例の土手道の右カーブを切った瞬間、再び、光の海が前方に広がってきた。わたしは、昨日まで、今後を如何にするべきかの結論が出ないまま、結局、納期に追われたままの日々が続いた。 さらに今後もまた、何ら変わらぬが、静かに一点に集中して要求されるのが現場のわれわれの、あがきであり、そしてもがくような毎日であるのだろうか。斯くあって知るべしとは、よく言ったものだ。人生を間直に翻ってみる場に至っても、斯くあって知るべしと,、ぶどう酒の杯を酌み交わした後に、最後の審判は下りるのだろうか。、、、、おやもうこんな時間だ。ここまで


2005年1月11日
急な加工の依頼で遅くなった。何とか設備を換えていかなければならないと思いながら、そうはいかないのが現実のようだ。ちょっとしたことで、その いつまで続くか、と予測するなんて、全く未知数の事柄に厭というほど費用がかかるものだ。だからなかなか手が出ないし、そこまで踏み込む余裕がまず、見つからない。「倹から奢には入り易く、奢から倹には入り難し」という諺も似た響きがあるのだが、会社の場合、それが本当に必要なのかどうかの判断が最も難しいし、ほとんど煎じ詰めれば、”未来予測”のようなものだ。その件で早、3ヶ月以上躊躇している。恐らく、徹底的にこれからも必死になって、躊躇するのだろう。むしろ、相当遠回りかもしれないが、”勘”を鍛えるほうが早いかもしれない。「これからどうなるのか」ということだ。まず第一に、この先は良くなるかそれともそうではないかの二者択一段階では、常に何があっても、それこそ大津波がやってきた後でも、楽観を選択しよう。第二に、それが善いことかどうかの問いには、常に文句なく、きっと良いことに違いないと確信しよう。信念をもつほど力まなくても、それが極、当たり前だのクラッカー程度に達観しておこう。そして、余裕があるなら第三に、パズルやトランプでもしながら頭の体操をしておこう。さらに、モーツアルトの流れるようでしかもウイットが出てきそうな音楽でも聴いておこう。そう言えば、若い頃住んでいた自宅のお隣からは、毎日毎日、盆正月を除いて、モーツアルトのピアノの演奏曲が流れてきていたものだから、例えばトルコ行進曲などは、今でも勝手に頭の中を流れて行くのだが、、、第四に、好きなことわざをもっと集めておこう。『座右の銘』というやつだ。昨年大リーグで打率トップになったイチローは 「継続は力なり」が座右の銘らしい。巨人軍の川上元監督は「氷を溶かして水にする」らしい。修行にこもっていた禅寺でそれを聞いて、ハッとしてから例の連続優勝が始まったようだ。 おや、また横道にそれた。
 
         子供しかるな 来た道だ 年寄り笑うな ゆく道だ


2005年1月10日
 半日、熟慮していたが、何らいい提案が思いつかず、日が暮れた。「おもしろ実験」のページを追加するのにあれこれとそうとう時間がかかり過ぎた。夕方、そして気がつくとラジオから中国琴の奏者の話が演奏と流れてきた。阪神大震災で亡くされたお姉さんがいつも口癖のように言ってたのが「今日はいいことありますように」だったらしい。、、、、おや、また時間だ。今日はここまで

おもしろ実験のページにサル山のボスの特別席に発泡スチロールの岩で近づく実験を追加しました


2005年1月9日
壊れたテスターの替わりを探して来たのだが、迂闊にもまた眠ってしまった。確かに人生の1/3は布団の中かもしれないが、このHPの更新を始めてから、なかなかそういう訳にいかないようだ。ちょっと、東京の光都市綜合設計鰍フ鈴木さんのHPを覗くと、また面白そうなことを始めておられた。鈴木さんのHPというのはいつ見ても大変勉強になる。そもそもこちらのHPを開設した切っ掛けは、鈴木さんのHPを拝見したのがご縁だった。首都圏を中心にして、相当大きな組織の東京建築家協会というのがあって、大学の教壇に立つかたわら、そこで講師もされていて、東京の建築家のたまご達や材木屋さん等にHP作成の手ほどき等もされている その建築家の間では有名な方だが、なんとこんな無知無名のあばら屋住まいの一地方の風が吹けば飛びそうな小さな発泡スチロール屋にお声を掛けて頂けたお陰でHPを開設出来た経緯がある。流石に大したものだ。いろんなことを手掛けて行かれる。(鈴木さんのHPはこちらから
さて、ようやく、沖縄見聞録が完成した。当HPを適当に探してもらえれば何処か端の方に出てくる。残念ながら、仲村君本人は、風邪で高熱を出していた為にお会い出来なかったが、生まれて初めて沖縄へ行って見て、確かに若い中学高校生の学生さん等、修学旅行先が「沖縄」というのが近年増加している理由がよく解った。世界を知る上で、そして、歴史を知る上で、そしてどこまでもどこまでも澄んだ青い空とエメラルドグリーンに挟まれた白いサンゴの砂浜で遊ぶのには、もってこいの場所だと思った。近年、地球の温暖化が進み、徐々に沖縄の気候はハワイに似てきているそうだし、冬の避暑地にも近くて最適になってきているのが肯けた。わずか2日の駆け足の見学だったので、正月休みの数軒の材木屋さんを見て回るのが精一杯だったが、何かと勉強になった。(仲村くんのHPはこちらから)

12月30日に少し書きましたが、くせのある人達の中で、一人今年独立して新大阪で事業を始める予定だというHさんから年末の京都の雪化粧の写真をお送り頂けました。大変綺麗な写真でしたので、取り合えずここにいくつかUPさせて頂きます。どうか、新事業の会社がうまく行って儲かりますようにお祈りします。


いずれもよく観光ガイドに出てきそうなプロ並みの写り具合だと思います。また写真を送ってください。いくらでもUPしますよってに


2005年1月8日
昨日から試作を重ねていたものが、7度目の挑戦でうまくいった。うれしいものだ。どうしてこうなったのかよく解らないが、4個目5個目で諦めずに頑張った甲斐があった。しかし、鐘の鳴らない仕事だ。たったこれだけの為に、丸1日が過ぎ去った。到底見合うものではない。頑張ったからと言って、宮仕えのようにその頑張りを給料に査定してくれる人はいない。ただの中小企業だ。よくよく考えて、もう少し、いい仕事を早く、軌道に乗せなければいけない。確かに、会社というのは余程余裕があるか、こんな風に無茶を承知でやっていくかしかないのだろうか。先代が阪神大震災の救援支援と走って、体調を崩して倒れたのも何となく解るような気がする。仕事とは、過酷なものだ。そして納期は待ってくれず、冷酷なものだ。どれだけ、頑張っても結果だけだし、何ら直ぐに日々の生活に還元されてくることはない。こうなって来ると、もう、それぞれの生き様の問題だろうか。まあ、霞を食って腹が膨れるといいのだが。だから、中小企業は、常にアンテナを張り、周囲に耳を澄ませて、多角化を視野に入れておかないと どんなことがある哉も知れぬと、覚悟がいるのだろうか。
、、、、暫く「サーバーに接続できません」状態でしたので、おやどうしてかなあ、とこの後1時間半ほどパソコンをひっくり返したり揺すったりしていましたが繋がらず、ようやく接続コードがカチッと入っていなかったことに気が付いて今日はここまで。 ふー


2005年1月7日
お問い合わせ有難う御座います。FRP製の植木鉢ですね。国内での宅急便発送でしたら、最近は競争も激しく、随分と丁寧になって来ていますので、発送途中での傷み 割れは減って来ているようですが、矢張り、中にはまだまだ事故がありそうです。念のため、プチプチよりも発泡スチロールの板を当ててからシュリングのビニールでラップされる方がいいと思います。現に、先日、中国地方から発送されましたFRP製のものが、エアーキャップだけで巻いてありましたが、見事に割れたり傷んだりしていたのを、客先で見せて頂きました。用途によっても発送物や発送先などでの使い分けは必要です。業務用としては、安全性から、緩衝材は十分検討するほうがいいと思いました。
お問い合わせ有難う御座います。何となく、早速のお問い合わせだなあと思いました。岩をご自分で撮影用に作ってみたいとのことですね。形状の不気味な奇岩をお作りでしたら、やっぱり発泡スチロールですね。それに、こちらとしても北海道から沖縄まで、だいぶん 世間でも『小さなブロックシリーズ』の”ブロッくん”の商品名が通って来た様な気がして、本当に有り難いと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 この年末の12月30日に”ブロッくん”を使って製作しました岩が毎日放送の生番組で放送される予定でしたが、あいにく、奈良県の幼児殺人事件の犯人が逮捕された臨時ニュースが途中入り、生番組の放送時間が相当削られてしまいましたので、岩のシーンもカットされたと諦めて番組を最後まで見ていませんでしたが、後から知人に番組のビデオを貸して頂き、再度見ておりますと、本当に最後の方で、5,6秒ほんの少しですが写っていましたので、驚いたのなんの、と言うより、思わず笑ってしまいました。後日、このシーンだけテレビ画面をデジタルカメラでカメラ撮りして、HPにUPする予定です。
 (暖かいご声援を頂いていた田舎の親類縁者他 近所の多数の皆様には、お正月早々何かとご心配をお掛けいたしましたが、もう暫くお待ちください。「ホラ見ろ」ではありませんでした。「よく見ろ」と言われそうです)


2005年1月6日
お問い合わせ有難う御座います。どこの発泡スチロール屋さんがそんなことを書いているのか知りませんが、どこかで相当な誤解が混じっているようですね。比較表から発泡スチロールの最も軽いものがバルサ材にあたるとして、堅めのものにランクが上がり、次がキリで、その次が、ヒノキ、そして一番堅いものが、ブナやケヤキにあたるとされておりますが、このような「近似比重比較」というのは余り意味がないようです。例えば、そのご指摘の表から、、含水15パーセントと細胞膜の合計を体積で割ったものが、木材の比重になりますから、比重の小さいキリで0,3から0,4ですので、発泡スチロールの世界からしますとまさしく「桁」が違い、「近似」にも当たらないようですね。しかし、その誤解をもろともせず、最大に寛容な真人間になって、逆に、こちらの経験則からしまして、キリ程度の堅さの触感が実際にあると思われる発泡スチロールが、どの程度の比重があるものなのか、推測しますと、恐らく、0,015g/立方cm 位のものではないでしょうか。キリの0,3とでは、0,3÷0,015=20ですので 20倍の差があります。これでは、比重が近いとは殆ど言い難い範囲に入ってしまいますよね。ところが、逆に、この発泡スチロール屋さんの『20倍の差』でというのが、『近似』に当たると仮定しますと、エゾマツが 0.4〜0.55ですので20で割りますと0,02、ケヤキが0,75から0,9ですから20で割りますと0,037ですか。水中に沈むシタン・コクタン 1〜1.2は、矢張り20で割りますと0,05ですね。0,05は昨年のNHKロボットコンテストの全国高専の部で使われた発泡スチロールの比重ですから、確かに、発泡スチロールでは水には浮きますが、感触という経験則からちょっと堅すぎるようですが、これ位がブナやケヤキに当たるんだとすれば、何となく頷けますね。以上表にまとめますと

或る発泡スチロール屋さんの発泡スチロールと木材の比重『近似』比較

  ※ただし、t=お問い合わせのあったこの発泡スチロール屋さんの乗数 
  ※独断が入っています。参考程度でお願いします

発泡スチロールの品番 比重 e 近似比重とされる木材 その木材の比重 e×t
0,012 バルサ 0、15 12 0,15
0,015 キリ 0,3 20 0,3
0,02 エゾ松 スギ 0,4 20 0,4
0,03 ケヤキ 0,75 25 0,03
 ※「近似比重」とするのではなく、平たく、あっさり、「ざっくり強度」とすればいいのに、、、、おっともう時間だ。では


2005年1月5日
お問い合わせが、既に4件ほどありました。有難う御座います。
さて、こんなところで正月早々、年賀状も書かずに、論陣を張るつもりは全くありませんが、確かに、今の40代のパートのおばさんが、仕事で追い詰められた状態にあるとのことですが、以前、日本が、まるで当たり前のように総中流化意識で充満していると新聞で報じられていたバブルの時代からすると、夫婦共働きは相当増えたように思います。また、最近では夫婦とも派遣社員になっている方も結構多いと思います。現状の生活を維持するために、皆さん、仕事を探してパートに走り、大変なんだと思います。朝から晩まで追われ、こき使われ、ようやく、僅かな稼ぎを様々な支払いに充て、帳尻を合わせて、狭い借家同然のローンの家で寝起きだけの暮らしとは、本当に中流なんでしょうか。いい言葉が思いつきませんが、やがてどこかの評論家が、この社会の現状を何か簡単な言葉で説明する時が来るのでしょうが、「支払いが多く、貯金が出来ず、年がら年中、夫婦そろって仕事に追われて、それでも意識だけは中流で在り続け」ている現状は、これは一体何んでしょうか。この年代は、バブルの始まる頃に結婚や就職をして、今後の人生に物凄く明るい未来を見てしまった世代だと思います。だから、中流なんでしょうか。何が何でも、中流でなければならない世代でしょうか。今年から少し上の世代は大量に定年を迎えていきます。入れ替わりに、今の職にあぶれた若い世代が就職し、社会の実権を取っていきます。だから、今の若者は何と、根アカでしょうか。笑いを求めて、テレビなどでも第4次お笑いブームを巻き起こしているように、将来に対して物凄く楽観的で子供のように明るいようです。その上の老人世代と下の若い世代の中間に位置する40代パートのおばさんの世代は、将にその意味で中間の中流でしょうか。中流を維持するために夫婦で堅くコンビを組んで仕事や家事をしていかなければ為らないから、冬ソナのような純愛ものに密かに自分達のシルエットを重ねようとムキに為るんでしょうか。何とかあと5年、我慢すれば状況は一変するわ、だからわたしは待つわ、とばかりに乙女心を失わず、頑張っている世代なのでしょうか。おっと、本題に入る前にもうこんな時間です。今日はここまで


2005年1月4日
で、気が付くとまた机で眠ってしまった。一度背伸びをして、それで気持ちがはっきりした、と言うわけでもないが、気温差13度、とっくに大阪の冷気で冷たくなっている、沖縄特産の果物で作ったペットボトル入りのお茶が、まだ少し残っていたので昨日までの事を思い出すようにゆっくりと傾けた。さて、沖縄で一番驚いたのは、一般的には、沖縄の気候や風土、といったことだろうか。それとも、今回沖縄で見た3軒の材木屋さんの特徴的な店の配置だろうか、何しろ風が強い時があるので、材木を縦置きするのに工夫がいるようだ。或いは、街角で見た、外国メーカー製の発泡スチロールの巨大容器だったろうか。確かに、ここは古来、南蛮交易が始まるずっと以前より、中継ぎ交易には理想的な位置にあったから、今でも発泡スチロールのようにかさばるものは、ここで、何らかのものの流れからはみ出した時は、よくそういったところに落ちるんだろうか、よく解らないが、勝手な後講釈も出来る訳だが、そういうことでもない。或いは、南国の青く綺麗に澄みきった空から降りてくる黒い迷彩色で固めた異様な大きさの軍用機が並ぶ飛行場が、白いフェンスでどこまでもどこまでも地平線まで届きそうに囲まれた嘉手納基地や、さらにどこまでもどこまでも続く弾薬庫の情けないほど果てし無い広さだろうか。或いは、ひめゆりの塔で見たあの玉砕自決を余儀なくされて暗く悲しい洞窟の奥で死んで逝った16,7歳の240名の乙女の姿だったろうか。確かに、この島では、この直ぐ近くで日本で発見された最も古い18000年前の原人の人骨が展示されているし、一方で、現代を刻み続ける生きた悲しい歴史をみることも出来るのだが、個人的に一番驚いたのは、そうではなく、海洋博の会場跡に出来た水族館の長いエスカレーターを見た時だった。気のせいだとは解っているのだが、ここへは始めてきた事は100も承知だが、その外観を見た時、2,3ヶ月前の夢の中に同じ建物が出てきた事を思い出すのには全く苦労は要らなかったし、何故か背中に冷や汗が走った。
沖縄海洋博跡に出来た国営沖縄水族館を、世界的に有名なイルカのショウが開催されている円形プールから見た遠景写真。中央右、三角屋根の大きな吹き抜けへ向かって下から上る長いエスカレータが見える。確かに、2,3ヶ月前、仕事で疲れて、いつもの様に机で眠ってしまった時、夢の中で、このエスカレーターを下から飛ぶように早く昇って行った。不思議なものだ。この不思議はどうせ誰に話しても通じないだろうから、ここに書き留めておこう。


2005年1月3日
夜遅くなって、沖縄の現地研究視察から戻りました。沖縄の旅については、改めてページを開いてそちらにまとめてみる予定です。今日の沖縄の気温が23度で、大阪に戻りますと12度しかありませんでしたので、季節がまた逆戻りしたような感覚です。


2005年1月2日
この日は、終日大阪を遠く離れておりました。そして、朝からさらに長距離移動をしておりました。結果的に更新はできませんでした。


2005年1月1日
明けましておめでとう御座います。今は亡き学生の頃の恩師に言わせますと決まり文句は「年賀の挨拶はいらないよ」ですが、そんなことはさて置き、取り敢えず、まだ、年賀状を書けておりません。身辺で移動が激しく、3年HPを続け、ここに来てまたまた、ばたばたしておりますので、この場を借りまして、

 昨年はどちら様も有難う御座いました。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

仕度の為、大変ばたばたしております。急ですが、思うところがあって遠方へ出掛けます。いつ戻れるか解りませんが、戻り次第、更新します。 以上 今年はここから


2004年12月31日
不覚にも、起きたのは陽が高くなってからだったが、外は日差しは無く、どんよりとした冬空で、見ている間に、直ぐに冷たいしとしと雨からぼた雪に変わっていた。昨夜は帰宅が遅く、最終電車だったので、駅から年末の人気の無い夜道を歩く他なかった。しかし、公園を横切る近道を通ろうと、大きな松林の残った駅前公園まで来ると、20歳前後の若者達が5,6人で花火を上げていた。
    たわむれに 冬のソナタは キラキラと 花火で遊ぶ そなた達かな

それで、しばし、次々上がる冬空の大輪に見とれながら、結局近道にはならず、夜半をかなり回ってから帰った。 自宅に戻ると、疲れて寝入ってしまった訳だ。翌日、起きると、直ぐ出社し、例の製作と急ぎの塗装などに掛かった。一段落して、またセルパネの道具に掛かっていた。まだ、今日も稼動している工場が何軒かあるようだと、一昨日来た発泡スチロールの或る工場の所長が話していた位だから、世間は、様々だ。こちらも、昨日は、世界を射程にして走る同世代 時代人の新風にあたってみては、またまた相当な影響を受けてきたので、得体の知れない観念に、まるで新刊を読んでしばしは、その新刊の語句 言葉使いが乗り写った時のように、抜け切れないで浸ったままでの作業となった。こんな小さな町の発泡スチロールの加工屋が、また、つまらない犬の遠吠えのような夢を見ながら大晦日を迎えることになった。来年は何とかいい年になって貰いたいものだ。今年はここまで
 
    たわむれで あれか此れかは 定まらぬ 君知る冬の そなたならまじ  


2004年12月30日
急ぎの発泡スチロールの塗装の後、セルパネ製造機の部品の買出しになった。異形ソケット又はブッシュが一個あればいいのだが、こんな年末では店が閉まっていて何処にもない。折角あと少しというところまで来ているのに仕方がない。早く組み上げて、完成写真を東京の光設計事務所に送って、驚かせてあげようと思っていたが、どうやら年内は無理になった。よくよく考えてみると、手作りで何か機械を作りたい、と言った発想を抱くのは、子供の頃、誰でもプラモデルなどの工作に夢中になったという動機つけがあったからなんだろうか。あの頃は、広く、町の何処にでも1軒や2軒のプラモデル屋さんが、歩いたり自転車で行ける距離にあったものだ。小学校の帰り道にはプラモデル屋さんに何気なく入り込んで、新しい組み立てのプラモに目を輝かせたものだ。それが、日本全国どこでも当たり前の光景だった。少し、上の世代では、真空管ラジオの工作がごく当たり前のようなところがあったし、社会全体が幅広く当たり前に”ものつくり”を考えていたような風潮があった気がする。だから、最近の子供たちは可愛そうだ。彼らの大切な夢多き子供の時代がものつくりから切り離されている。5、6歳まで積み木や組み立てパズルで遊んだ後、隣近所の小さな社会でものつくりに出会うには、一部官製の空間に入らないことには、なかなか、こういった雰囲気を味わうことが出来ない。もうそんな世代が、30歳ぐらいまで広がってきているような気がする。ものつくりのピラミッドの広い底辺を形作っている層が、やがて音を立てて消えていくのだろうか。不思議の工業立国日本も、はかない一時代の幻想として過去の歴史に埋葬されるのだろうか。夕方遅く、先日朝日新聞朝刊の2面に、糸井重里、椎名誠、吉本ばなな等と並んで大きな名前を広告に出すようになったので、もうここまで来れば作家としては押しも押されもしない有名人のレベルに入ったのは確実と思いたい大学時代の友人に呼ばれて、京都の祇園まで出版記念会兼忘年会に行く。京阪四条を下車し、八坂神社の方へ少し行くと大石倉之助が密談をしたり、新撰組が通ったりしたことで有名な赤土塀の一力屋を右へ曲がり、けいこ帰りの舞妓さんが小走りですれ違う石畳の細い道を 昨日は京都も初雪があったかと寒い話に白い息を吐きながら、「元気が何より」とお互いに無病息災の安否を確認し、何百年続く老舗祇園界隈のエリヤを横目に眺め、そこからまだずっーと右へ左へうなぎのような小道を抜けて行くと、竹で編んだ雪避けを両側に置いた小さな玄関口に わざわざお出まし頂いて、「おいでやす」と、親しみのある女将のご案内で、店のつくりから推し量るに 200年は軽く続いているのだろうか!その京都風の木造2階建て、伝統の店に通された。2階へ上がると奥の間に男女10人ほどの、皆人生に癖のありそうな 将来の作家のたまご達が集まっていた。おっともうこんな時間だ。きょうはここまで


2004年12月29日
 この道を今年も何度往復したのか解らない。淀川沿いのあの研究所への近道だ。最後は雨の中の往復となった。研究所は、盆正月なく開いているので、所内は今日もどこかの総合病院の消毒薬とそっくりの臭いを一杯にして、次々と廊下を行き交う何人もの白衣の研究員が、試験管に何か大切なものを混合してか、それとも忍ばせてか、そわそわと小走りで実験室へ消えていくので、もし患者さんが点滴をしながら歩いていたり、各階に病室さえあれば、小説の『白い巨塔』の中で、威厳のある教授が大勢の部下を従えて回診に回るシーンでもみられそうな重い雰囲気がある。今日も、得体の知れない それらしい研究が時間を惜しんで続けられている様子に見えた。不思議なものだ。将に月とすっぽんかもしれない。この道を通って会社に戻ると、先日雨漏りが激しかったのでやっと葺き替えたばかりのトタン屋根に、壁はまたまた腐りかけたベニヤ板一枚で寒風隙間を縫って忍び込む それはそれは小さな掘っ立て小屋のような当社研究室が待っていた。今日も、各種製作が続く。とんからりん とんからりんの機織り機械音のような在庫積み上げ作業が続く。 3時頃、馴染みの発泡スチロール工場の工場長?が暮れの挨拶に面白おかしい土産話をもって訪ねてくる。、、、おっともうこんな時間だ。今日はここまで


2004年12月28日
例の特殊形状の水耕栽培用水槽と、フロートセット 3点、急ぎの製作。夕方遅く、漸く、完成。大きさが小さくて、これなら、ちょっとした部屋の隅に置けそうだ。この大きさでの水耕栽培は、家庭や職場に入り易いのではないかと思った。特殊用途では製作したのだが、これを単独で押し出しても、可愛い大きさだから結構いい線行きそうな気がした。まあ、依頼主の判断だから仕方ないが、面白そうだ。実にいろいろな考え方があるものだ。お米の苗は水耕栽培だから、これを一人一食分並べておけば、年がら年中、自分で収穫が出来て、手作りの米が食べられるって訳だ。田圃は要らない。稲刈りもいらない。今では、精米機が何処でもあるから、玄米を精米して食べられる。夕方7時頃、一段落着いて、先日、或るメーカーの方に、不自由なお身体を押して、本当に有り難い事に、青写真を持って来て頂いていたセルパネの機械の電気回路をやっと組み始めた。大変複雑に混み入った電気回路が並ぶから、配線盤に孔を空けるだけで今日は終わった。続きは明日にして今日は早く寝よう。もう3時だ。こんなコーナーを担当して3年目になるが、継続は大変だ。将に体力との勝負かもしれない。


2004年12月27日
今日も朝から急ぎの製作作業数点。昼から、一軒、先々月、この物凄い不景気の中で、勇敢にも新規に材木屋さんをオープンされた店へ雑用に伺う。店を始める前、あれだけ世界の中心で愛を唄った様な暖かい物腰で、加齢と共に好々爺になられるのは間違いなし、と思われた若き材木屋さんの旗手も、周囲の皆の期待と責任の重圧で、ご多忙の為か、相当お疲れのご様子だった。わずか3ヶ月で、ふっくらした容姿は、目にクマが出来、頬は落ち込み、僅かに年齢のまだまだ若さを物語るものは、その透き通ったような目の輝きだけになっておられました。どうか、頑張って続けて頂きたいものです。正しく、先端科学の研究所であっても、こんな小さな材木屋さんであっても、すべてトップのあなたで決まる。舵を握る船長の気持ちとおんなじだ。内には人を引き付ける世界の中心のようなものが無くては為らない。外には、それに向かって挑戦していく強さがなくてはならない。そして、高波は突然やって来るから、素早く身をかわせなくては為らない。間違いは許されない、期待は叶えなけばならない。会社を続けることは、斯くも大変なものだ。出る釘は打たれる、挙げるこぶしにぶたれる、右足を出せば残す左足は引きずられる。のれんに顔突合せ、猫は小判を持ち逃げする。冗談もふんどしも股にして、こつこつがダントツと、今日もあくせく、明日もあくせく、でくの坊に働くしかない。
夕方、大学の友人で沖縄に移住してしまったN君から懐かしいお便りを頂けました。有難う御座いました。そういえば、Nハム研究所のS所長と学生の頃、N君の4畳半一間の京都の下宿に遊びに行った時、N君お手製の料理を皆でよばれた事が一度だけあったことをふと、何の脈絡もなしに思い出しました。今から27年前。早いものだ。どんな会話をしていたのだろうか、記憶力抜群の彼らに聞けば解るのだろう。懐かしいものだ。、、、や、や、そう言えば、最近滋賀県の長浜の浄土真宗の大寺院の坊主のせがれが遊びに来ない。どうしたのだろうか!新潟の救援に行ったのかと思っていたら、どうやら今度はインド洋へ飛んで行くんだろうか。


2004年12月26日
気掛かりだが、今の若者の失業率が高止まりしているそうだ。確かに、高卒の新規就職率は幾分改善傾向はあるようだが、就職しても直ぐにやめて定職につかない為に、結局実質の若年齢層の失業率は30%を超えたままらしい。ある人の見解では、9年に及ぶ0金利政策の為のデフレが 企業に賃金の安い海外移転を進めさせてきたことが原因だという。優秀な若い人材が豊富にあっても残念ながら仕事がないようだ。国の国債残高が天文学的な数字になり、少しでも金利が上がれば国債の暴落に繋がるから、金利は上げられない。そして、市況はデフレに向かい、国内で経営を維持できずに海外へ工場が逃げ出していく。だから、若者の仕事がない。若者に希望の持てる仕事がないと人口も減少する、、、と。だが、今年は鉄鋼を始め、石油 紙パルプなどの素材の値上げが続いたので、来年からはようやく、デフレ、0金利等は終わるのだろうか。公定歩合も上がるのだろうか。そしたら、海外へ逃げ出した企業は、逆に優秀な若い人材を求めて国内回帰を始めるのだろうか。微妙なところだ。一方で、団塊の世代が来年から大量に定年を迎え始めるので、企業の人件費の負担は急減し、一方で若者の安い人件費でよく働く層を大量に採用を始めるとする見解もある。さて、どう動くのだろうか。今日はここまで

製作実例集少し追加
セルパネを使った乾燥室の途中一部写真追加


2004年12月25日
朝から例の製作他。仕事の合間、横手倉庫の一角を乾燥室にしようとハリキるが、何せ作業は進まない。夕方、以前ネットのお問い合わせで聞いていた、発泡スチロールビーズを上から落とし、下で吸引しての循環で雪の表現をしているという阪急梅田の百貨店の通りのデスプレイを見るのが目的で、臨時アルバイター君の夜行バスで行くスキー旅行の見送りに付いて、大阪市内へ出る。京阪淀屋橋から夜のヘッドライトの中をしばらく歩いて、大阪駅前の陸橋で大音響のコンサートに驚きながら、轟音を避けるように下へ降り、地下街を抜けた。阪急百貨店前や三番街通りへ来たのはもう、5年振りだ。地下街から急な階段を上がると石のライオンが見え天井の高い教会のようなドームがあり、そして、神戸のルミナリエを小さくした様な光の電飾が通路の片側を埋めている。その通路に面している百貨店のショウウインドウが並んでいる。なるほど、確かに発泡スチロールのビーズを循環して雪の表現をしていた。しかし、通りへ着いたのが夜9時半を回っており、クリスマスセールも終わり、大勢の業者さんによって、素早く撤去作業が始まっていたので、見ている間にショウウインドウのひとつひとつが、発泡スチロールの循環装置は分解されてしまって、代わって正月の飾りつけになって行った。わざわざここまで急いだ甲斐がなかったが、お陰で、吸引装置とベルトコンベヤを組み合わせた装置の方は相当工夫を練って作られているのがよく解った。長野行きの夜行バスは10時22分に発ったが、雪がまったく積もっていないということで、引き返す組が1,2組あったり、がら透きの状態だった。帰り、同じところを通ると、ショウウインドウは松飾り、鏡餅などが並んでいた。この早替わりは実に面白いものだ。


2004年12月24日
今日も、各種製作作業の合間に、例の倉庫を区画してつくる乾燥室の作業を進めた。折角なので、壁には先日の台風23号で使い物にならなくなったセルパネ等をセッテングした。ここまでで、8割がた完成した。素人がしているので、こんな乾燥室の作り方で本当に乾燥が出来るのか解らない。今年一番の大阪の冷え込みのせいか、びゅんびゅん隙間風が小屋の天井付近から入って来て 顔にあたる。これではいけない。まだ、どこか天井に大孔がありそうだ。しかし、この作業に目途をつけないと、何しろ、場所がないのでセルパネ製造機の次の組み立てへ進めない。年末だ。クリスマスイブだというのに焦りながら作業を進める。こんな、詰まらない近況を書いても仕方がないのかもしれないが、、。 一方、ネットの営業部の方では、あり難い事に今日も様々なお問い合わせが続いた。北は北海道から九州福岡まで、今日はお問い合わせがあった。確かに、発泡スチロール等に関連した日本国中の新しい、そして面白い情報がお陰さまで 次々に集まってくる。こんな若輩者だが、不肖ながら、当部を担当し、本当に勉強になる。お問い合わせで質問されて、お答えを返すよりも、はるかに多くの事を皆さんからお教え頂いているに違いない。例えば、最近、8件、9件と連続した各機関、大学 企業の研究機関からのある実験の治具に関するお問い合わせを横に並べると、日本の業界地図の最先端の動きが将に見えてくる。何となく、どちらに向かっているのかが、素人ながら、これだけ続くと深く考える事もないくらいに観えてくるものだ。何かあったのに違いない。或いは、最近増えだした、基本的な梱包での疑問、質問に関しても、流通へ渡る前段階で、皆さん如何に苦しんでおられる方が多いのかが解る。しかし、皆さん、業界を探しても、中々そこまでお教え頂ける所がないようだ。発泡スチロールを使った梱包と言う場合、確かに、10個20個のご希望では、スケールメリットがなければ到底引き合わないだろう。それを敢えて当HPで取り上げている訳だが、これは恐らく半分サービスか、流通に関する自分の勉強と考えてでもいないと引き合わないのだろう。しかし、実に様々な梱包の依頼があるものだ。だから、大変有り難い事に、自分の勉強になる。何年も続けて担当していると、これも、何が、どちらに向いているかが次第に見えてくるからだ。まあ、こうして書き続けていると、確かに常にアンテナを張っていないといけなくなるものかなあ。今日はここまで


2004年12月23日
ひとつ、考えることがありました。今の日本を動かしている若い世代やどこかの研究所内で年齢に関係なく日夜勉学に汗している方々は別として、日本を握っている層の年代は、まだまだ大半はネットとは、無関係にあるんだろうということです。ネットの世界的な伸びは激しく、2,3年前のデータでは 3億人程度だったから『もし世界が100人だけの村だったら』の本にも100人中2人程度がネットに参加しているだけとありましたが、インドや中国の人口大国の伸びと東ヨーロッパの意外な伸びで、あと5,6年すると、ネット人口は世界で17億人に達するらしい。世界が100人の村だったら、26人がインターネットで世界と繋がることになる。すると、確かに、25人の飢えた人々、10人の住む家もない人々が一方にいる訳だから、大変な2極化が進行しているような気がするが、もし出来るのであれば、静かに進む世界的なこの変化に注意してほしいと思うのだが、恐らくその層は、この変化をまだまだ認めはしないだろうなあ。最初は趣味や辞書の代わり程度だったものが、世界では、恐らく英語圏が中心だろうが、多くの人が使い慣れてくれば、同じ興味の人達で国境を越え、仮想の国際同盟でも出来上がるんだろうか。特に、0を発見したことで有名なインドが、10億近い人口を抱えて、英語圏に入っているというのが不思議だ。アメリカとヨーロッパの人口を合わせたよりも多い国だ。きっと、たて社会のピラミッド構造ががんじがらめに縛っていた時代閉塞を簡単に無にするネット社会は、優秀な人材を世界の前面に出してくることも容易にするだろうなあ。何が起こるか解らない世界だ。富の移動が瞬時に起きて、一夜でパックスアメリカーナは終わりを告げる日が来るかもしれないなあ。おっと、またつまらない事を書き始めた。長くなる、今日はここまで


2004年12月22日
今日は各種作業の合間、引き続き、例の作業場の改修を続けた。兎に角、一段落しないことには何にも先に進まない。zzz zzz zzz ここまで書いて眠ってしまった。どうも、ページの転送もしなかったようだ。また明日だ。


2004年12月21日
他人が、もし事情を知らずに、その場に居合わせたなら、たったそれだけのことに何でそれ程時間を掛けるのかと、一蹴に伏してしまう様なら、それは大変な間違いなのだろうと思います。、その人が漸く、5、6分という信じられないような長い時間を 費やして、将に、その人の首から下脊髄全体に走る恒常化した激痛が、全生涯を掛けて、どんな時にも前向きに情熱を持って仕事に打ち込んでこられ、決して何があっても自分からは途中で投げ出したりはしなかった、自信と誇り、プライドが、数々の栄光の過去歴の縮図ででもあるかのように、お付きの人の車からゆっくりと降りて来られる姿は、セルパネ製造機の自動化を敢えて依頼した私には、余りにもかたじけなく、余りにも有り難く、そして余りにも責任重く感じられました。介添えされながら、距離は何メートルもありませんが、ここまで一歩また一歩と、針のむしろを素足で歩くようにして、ゆっくりと走馬灯の様に次々と浮かぶ生涯の思い出をまるで強く噛み締めるかのようにして近づいて来られました。事情をお聞きしておりました私には、その姿はそう映っておりましたので、ただ、呆然と、事務所の横で出せる声も無く、黙って立ちすくんでおりました。「そこまでして頂かなくても、無理はしないでください」という言葉は結局最後まで言えなかった。ここにこの人がいる。セルパネ作りにここまでして下さる人がいる。__来年、直ぐに50歳を迎える。小学校と中学に通う明るい歌好きの娘との4人家族だ。自宅のローンはまだ中間点を回ったか回ってないかの処だから、まだまだこれからも収入を確保していかなければならない。大学を出て直ぐに就職した造船所でエンジンの設計に配属されて、右に出るものはいないと自負する位、猛勉強をした。その甲斐あって、とんとんと昇給したが、突然造船不況がやって来た。真っ先に、「注文がないから」と営業に回された。それでも、必死で営業を勉強した。少しでも会社の為にと営業の講習会にも何度も顔を出した。しかし、続く深刻な造船不況にあって、大勢の仲間とともに解雇だった。しばらく、途方に暮れたが、家族の顔が浮かび、再就職には仕事先を選ばなかった。根っからの勉強好きは、ここでも活かされた。しかし、漸く、営業職での採用だったが自慢の技術系へ配属が代わって、3年が過ぎていたそんな矢先だった。最初は、両手の指先が少し、痙攣してきたので、マッサージ師に揉んでもらっていたが、あごの付け根がよくないとマッサージ師に言われ、あごを伸ばしたりしていると首から下背骨全体に激痛が走って、急いで病院へ行ったらしい。診断は「脊椎損傷」。掛かり付けの長い付き合いの医者だったのでざっくばらんに、隠さず話してくれと頼むと、医者は一言「残念だが、これはもう治らないよ。ほっといたら下半身不随になるが、手術しても治るか直らないか五分五分だ。それに、治るといっても今の痛みを食い止めるぐらいで、その痛みは一生続くかもしれないよ。仕事はできないね」と言われた。仮に手術を選んでも、入院とリハビリに2年かかる。2年では会社を辞めないといけない。激痛を死ぬ気で我慢していてもやがて下半身不随になるから、どちらにしろ、今の仕事を辞めないといけなくなる。恐らく、辞めたらもうこの身体では、再就職は出来ないだろう。どんなに苦しかった時も明るい歌を歌って励ましてくれた娘達はまだ小さい。娘達のためにも、働いて収入を得なければならないが、どちらにするのか、もう直ぐ決断を迫られる。___もしかすると、この仕事が人生最後の仕事になるのかもしれない。だから、どうしてもやり遂げたい。その人は、そんな思いで、セルパネ自動機の青写真を持って来て頂きました。ただ、ただ、言葉が御座いません。有難う御座いました。

 なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに 涙するなり  (江戸時代の無名の俳人)

 病床に、亡父が最後の手術に向かう前に読んでいた書物の開いていたページにこの詩歌がありました


2004年12月20日
今日も朝から各種作業。いつの間にか今年も残り少なくなり、何気なく、薄っぺらくなったカレンダーの日付をひとつひとつ消してカウントダウンを始めるようになる。例の特殊砲の緩衝材のカット作業がまた始まると聞いていたが、もう何年も同じ資材搬入業者が、年に一度、大きなトラックでやって来ているので、昼頃、そのいつもの業者の懐かしい顔を見ると、おおー、もう一年が過ぎたんだと、思わずその肩を叩きながら、「毎度」の形通りの挨拶もそこそこに、お互いに無事一年を過ごせたんだね、といった感嘆の声が漏れてしまった。発泡スチロールの自動成型機がたった3台だという小さな発泡スチロールの成型工場だから今年は特に大変だったのだろうか。苦労談というのか、よくここまで存続してきたという ため息というのか、荷おろしの合間に随分とその口から漏れてくるのでお互い様と内心で相槌を打ちながら聞いていた。バブルという名の世界の冷戦構造が割れて、東西がなくなり、生産力の余剰調整が進む一方で、漸く、新興国の工業化のうねりが世界の生産力を吸収するまでになるのに、15年の年月が過ぎた。中国だけでなく、ロシア、インドなどが次々と、生産力を増大しているので、需給の逼迫は、ここへ来て本物に見えてきたのだろうか、いち早く銀行などのバブル処理終了宣言に続いて、大手、重厚長大産業の設備投資が始まり出せば、景気の循環のお説による景気上昇波が本格化するんだろうか。だから、責任知らずの知識人は、盛んに来年以降明るい未来がやって来ると煽る。何より大手銀行が、体力を回復したなら、大手企業→中企業→小企業→零細企業→さらに零細企業の当社 と注文の連鎖があるはずだと期待を抱かせる。まあ、無責任な「公共知識人」の言うことも、財布の隅にあった5円玉や10円玉を出して、やっと300円で1枚買ったジャンボが、間違って大当たりする夢を 見させてくれるようなものだと思えば、それでいいのか。街角景気の回復は一体いつになるんだろうか。今日はここまで


2004年12月19日
調べ物をしながらあるニュースに目が留まりました。確かに、考えてみますと、我々の様なちっぽけな発泡スチロール屋には、どうでもいい事かも知れませんが、今年は石油の高騰で世界的には大きく富の移動が起きたそうですね。産油国では、国の固定費は余り変わらない一方で、原油が2倍に跳ね上がったのですから、莫大な余裕資金ができたんでしょうね、いわゆる「オイルマネー」ですね。これが、来年以降日本に還元してくるらしい。景気がいいのか悪いのか、いつも御上から吸い取られるだけなので、もひとつ実感が湧かないが、景気がよくなるのならいい話に区分けしたいものだ。来年それで回りまわって木造の家がたくさん建つといいのだが。今日も時間切れ

制作実例集いくつか追加


2004年12月18日
朝から例の製作。納期に追われていましたが、夕方頃には何とか、きりをつけて、空いた時間に先日台風23号で被害を受けた工場横手の物置の屋根の改修を続けました。塩ビの透明な波板に葺き替えたお陰で雨漏りはなくなりましたし、光がよく入るようになり大変明るくなりましたが、壁との隙間が縦に10センチ開いていますので、まともに寒い風が入り込み、仕事に支障を来たしていました。先日の大雨の時もここから横殴りの土砂降りの大量の雨が中に入って来たようでした。それで、取り合えず、発泡スチロールの端材を波板に合わせて波状カットしてはめていきました。この一角をセルパネの在庫倉庫にする予定ですが、とても明るくなりましたので、さらに、一角を乾燥室にしようと計画中です。慣れない作業ですので時間がどんどん過ぎていきますね。今日はここまで


2004年12月17日
昼前頃、例の妙な実験を繰り返す研究所へこれまた妙な作りの加工品を幾つか納品した帰り、冬らしくない冬の、曇り勝ちで鈍よりして、明暗のハッキリしないねずみ色を川面に写した淀川を左に見て、土手の上の近道を走っていた。来る時には南ランボウの作品で「救急車は大げさすぎる」という一節を柄本明が独特のふざけた語り口調で朗読しているのがラジオから流れていたので、そのいつもの研究所の敷地の角を曲がると、いつものように、年度も近くなり、使い終わった 奇妙な見たこともないような各種実験器具が所狭しと並んで置かれているのを見て、「そんな器具では大げさすぎる」と、納品前の奇妙な緊張があったからだろうか、勝手にラジオの軽快な話を打ち消すように目の前の野ざらしの機械類をこじつけて、そう思ったものだが、ようやく納品と打ち合わせの会議を終え、淀川を ここまで戻ってくると、会議の内容も良かったので、ほっとしたのか再びラジオのスイッチを入れて見たくなって入れた。直ぐにアナウンスの「、、、色やねん」と聞こえて、上田正樹の「悲しい色やねん」が流れてきた。こんな歌に共感する年代だ。見通しのいい風景が、歌の悲しい色に拍車を掛けて迫って来るので、黙って聞いていた。20年そして30年だろうか、自然に昔を振り返っていた。もし、ここでこの歌の替わりに中村雅俊の「ふれあい」が流れていたとしても同じだったかもしれない。 そんな年代か! 、、、そして、今日の朝6時過ぎに、急ぎで会社まで例のものを引き取りに見えられた毎日放送の若いスタッフのことを思い出した。学生さんに少し髭が生えたような元気はつらつで、青春時代をまっしぐらに突き進んでいるような雰囲気の方だったので、こちらとしては、つい、現代マスコミの先端の職場事情を邪推してしまっていた。もう、すぐに冬の長い夜が明ける前の一番暗い夜道をこれから嵐山の撮影現場まで、走っていくらしいが、昼夜関係のない激しい仕事には、我々の年代の者は、現場には居ないのだろうか。付いていけずに途中で皆辞めていくから、彼らのような若い世代が次々に入って来る業界なんだろうか。表面だけのかっこ良さとは裏腹に、冬のどんよりとした空色の様なドラマが舞台裏で常々展開して、大舞台が回っているのがマスコミ関係の仕事なんだろうか。その点は、あの研究所とは全く、動と静の正反対のコントラストだ。しかし、老若男女を知らぬ白衣の下では、時として、試験管の小さな世界の中に、世界を3日で揺るがえす様な劇的な変化をつくり出すことも起きるのだろうが。zzz zzz zzz おっとまた眠ってしまった。夢に中学校の同級生が何人か出て来た。一人は えーとえーと確かにあれは、O田君だろうか。白い髭を伸ばして何か話していたが、目が覚めると忘れてしまった。きっと、若いテレビ局のスタッフが、彼の若かりし頃の元気な雰囲気に重なっていたんだろうか。


2004年12月16日
先々代から数えると早51年のお付き合いになるんだろうか、或る仕入れ関係の会社だが、それでも かれこれ35年になる営業のベテランが、久々にご挨拶に見えた。「今のうちに今年のご挨拶にと思いまして」と丁重な言い回しには、人生をこの道に賭けた人でなければ決して発することの出来ない含蓄のある響きが込められていました。「こんな小さな会社の名前を営業の看板に掲げて来ましたが、いろいろありましたよ。35年の間には、倒産に中てられた事も、5回ありましたしね。回収できなかったことはそれ以上でしたかいな。いろいろありましたが、よくここまで続けて来れましたよ。ちょっと前でしたが、ベニヤの安売りを出した店に呼ばれてその所へ行きましたが、その社長が、2年前に、新品の機械を納品した次の日に倒された会社の社長と同一人物だったと知って、驚きましたが、あれだけ大損をさせられているんで、腹の中が煮えくり返るような気分でしたよ。」と、貴重な体験談を聞かせて頂けました。その後、一呼吸あって、「営業の基本は、どこにでもある品物であっても、お客さんに紹介することで、お客さんにとってはそれが、大いに役に立つことがあるもんだ。こちらに言わしたら そのどこにでもありそうな品物が、お客さんの手を通過することで、高く売れたり、役立ったりするんだから、紹介料のようなものがあっていいと思いますよ。その商品と商品の知識を提供する訳だからね。それに商品の情報は常々集めているし、それがプロなんだが、集まった商品情報には、暇と金が掛かっている訳だからね。だから、もの作りも同じだよ。材料代はせいぜいどこも同じだろう。何が違うかと言えば、同じ材料を使って、絶対に誰にでも出来ないものを作る訳だから、技術料といった名目で材料に足して、お客さんから頂いても当然だよ。何故なら、絶対に他では出来ないんだから。絶対に」、、、、、 おっと、明日は朝早くから毎日放送のスタッフが見えられる。今日はこの辺で


2004年12月15日
朝から、白くま君になっていました。作業が終わったのは夕方でしたか、余り良く憶えておりません。そうこうしていると疲れて眠ってしまいました。例の毎日放送の方の急なご依頼にてんやわんやの終日でした。今日はここまで



2004年12月14日
今日も朝から、有難い事に、お気楽ご機嫌なお問い合わせが続いておりました。昼前ごろ、漸く一段落してから、直ぐに近くのホームセンターを数軒回って、少量のスポンジを集めました。ロットが僅かなんですが、発泡スチロールのR加工面にスポンジの貼り合せ加工のご依頼が急ぎでまたありましたので、鐘の鳴らない材料を探しに出掛けたのでした。しかし、店内は季節柄どこもクリスマス商材の華やかな色とりどりの飾り付けがあり、今頃では日本国中どこでも聞こえているようなクリスマスの鐘の音や賑やかなサンタクローズの音楽が流れていました。そう時間も掛からずに必要なスポンジを見つけた後、折角、立ち寄ったので各商材の小売価格を見て回りました。建材コーナー定型板でも、今年は10パーセント以上、以前に比べて値上がりしているものが目に付きました。この辺りの末端卸し、小売価格もかなり変動があるんだなあと思いました。世界的にはまだまだ需給の逼迫が続いているんでしょうか。そして発泡スチロールの板もののコーナーであれこれしていると、母親に連れられた3歳位の小さな女の子が、向こうから 母親の手を振りほどく様にして走って来て立ち止まり、「ハッ、ねー、ハッピースチロールよ」と楽しそうな声で母親に話しかけて、見上げながら同意を求めているのが、振り返った広い店内の少し遠目で見えました。彼女の母親が、またいつものようなセリフに少し疲れたのか「そうね、発泡スチロールね」と諭すようにして、その世界を最初に発見した偉大な我が子に答えていました。すると、錦の御旗を得たように、勇気付けられたそのコロンブスの小さなたまごは、何度も「ハッピースチロール!ハッピースチロール!」と言いながら、陳列棚の直ぐ前まで来ました。その様子を見ていますと思わず、こちらも楽しく愉快で言葉に釣られてハッピーになって来ました。そして、その偉大な第一発見者はこちらを見て、この年齢の小さな子供達にとって、よくある事ですが、見ず知らずの他人のオジサンにまで「ハッピースチロールね」と大発見の同意を求めてきましたので、つい、「そう、そう、ハッピー!ハッピー」と言って両手でピースを作ってあげていると、それを見ていたのか、世界にまたとない、大切な将来の大発見家の娘さんの母親が直ぐ追いついて来て、厳粛な声で「すいません」と会釈しながら、最近の物騒な世知辛い世の中を反映してか、少し警戒するように、その白い世界の第一発見者の小さな手を引きながら向こうへ行ってしまいました。後ろ向きに、そのコロンブスのたまごは「ばいばいー」と言ってくれましたので、何故かまだ余韻が残ってハッピーでした。帰り、レジの横で来年の年賀はがきの売り出しがありました。「ハッピーニューイヤー」と発泡スチロール製の浮き文字の看板が掛かっていましたので、先ほどの一件がふと思い出されました。車に乗るとラジオから、働き盛りに癌に倒れて、手術で一度回復した後も、女性特有の治療薬の副作用で精神的に落ち込んでいた方が、内科医の「福田さん あなたにはまだ 愛があるよ」と何気ない一言を掛けられた事が大きな心の支えになって、その後癌の手術を受けた人達ばかりが集まって癌ケアーの会社を立ち上げた話が流れてきた。アナウンサーが「日本全国から続々とFAXでお便りが寄せられています」と、その感動と勇気のお話に答えていました。どうやらクリスマスが近づいて来ているようですね。

  クリスマス 小さなサンタが渡してくれた 鐘の鳴る鳴る ハッピースチロール


2004年12月13日
今日は朝から例の計算をしながらでないと加工が出来ない鐘の鳴らない製作の続行。時間ばかり無情に過ぎていくが、ここを通過しないことには前進はない。前進はないので、無闇矢鱈のクラッカーと行かない。一方、ネットのお問い合わせは有り難い事に今日もご機嫌に次々とお問い合わせが続いている。ネット専用の整理棚を用意して、病院の受付に並べてあるカルテのようになってきた。お問い合わせ段階ではPCに入っているだけなんだが、それでも出来る限り、コピーして、もし又今年の5月のようにウイルスが侵入してpc画面がすべて白紙になって、お問い合わせ先を探そうにも打つ手がなくなってしまったが、そんなことにならないようにした。今日はここまで

実例集少し追加





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